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【三陸芸能つなぐ声】Episode 03|第三話「えんぶり組と八戸史 」

  • 2021

三陸国際芸術祭2021 芸能交流プロジェクト「ふえlab」の成果発表「髪長姫〜アジアが紡ぐものがたり〜」では、3つの日本の郷土芸能団体と海外の2団体に出演していただきました。
その中の一つに八戸市の「十一日町(じゅういちにちまち)えんぶり組」があります。
えんぶりとは、青森県八戸市周辺で行われる郷土芸能です。毎年2月17日〜20日まで開催されるのが通例で、それは旧暦の小正月に所以します。豊年祈願の予祝の舞とされ、大きく華やかな烏帽子をかぶった「太夫」と呼ばれる舞手達が踊ります。農具の「えぶり」で地面を擦って踊る動作から、えんぶりでは踊ることを「摺る」と呼ばれ「摺り始め」「中の摺り」「摺り納め」が基本構成となり、その合間に「大黒舞」や「えんこえんこ」などが繰り広げられていきます。
「髪長姫」クリエイションの為「十一日町えんぶり組」を取材した際、八戸市で郷土史を研究している古舘光治さんにお時間をいただき、えんぶりと八戸の歴史について教えていただきました。


語りつなぎ人:古館光治|フルダテコウジ

/ 八戸埋蔵文化センター 是川縄文館 前館長

八戸市で文化財や文化事業などを担当。退職後は八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館 館長等を務める。現在は、八戸市を中心に講演会などを行い、八戸の歴史を伝えていく活動に重きをおいている。


「えんぶりの基本を学ぶ」

ー えんぶりの発祥には諸説あると伺っています。江戸時代頃の南部藩では飢餓・ガス(餓死のこと)等という言葉をよく聞くんですが、その頃と芸能の発祥がどう関わってるのかをお聞かせいただけますか?

古舘光治氏のインタビューの様子。
「髪長姫〜アジアが紡ぐふえものがたり〜」では、5つの芸能団体の笛の旋律やお囃子の拍子を研究し、一つの楽曲を作成しました。現代音楽家の佐藤公哉、笛・尺八奏者の大部仁が音楽クリエイションに参加しています。写真は右から 古舘光治氏、大部仁、佐藤公哉、今川和佳子(八戸市在住アートコーディネーター。髪長姫では十一日町えんぶり組のコーディネーターとして参加)

古舘:最初にお話したいのが、えんぶりの歴史は800年の歴史があると言われていますが、あれ、ないと思っているんです。
800年というと鎌倉時代まで遡る。鎌倉時代の芸能って残っていないんですよ。室町時代終盤の芸能が世阿弥とか能・狂言等になる。江戸時代終盤か明治の初め頃にそういったことを書いたものがすごく流行った。元々山梨の南部氏の人がこっち(八戸)へ来たという話があって、山梨からというのは確かなんだけど、来た事が歴史的に証明できないんです。何故ならば書かれてる人が実は頼朝の近くで護衛みたいなことしてたから。こっち来る余裕ないでしょうという話。でもそのような伝説が江戸時代終盤から明治頃にできて、それに合わせて800年っていう説があります。

まず、えんぶりを考える時、農作業と非常に近いと言われますが、旧暦で考えないといけないんです。今私たちは新年迎えてから寒さキツくなるけど、昔は寒さが過ぎたところで新年に入る。旧暦の小正月の行事は旧暦の1月15日、一年で最初の満月の日。それは今の暦の2月の後半とか3月の初めにあたり、暖かさが出てくる。そろそろ田んぼの準備しようかって始める時期なんです。やはり稲作が豊年になるようにとのことで、芸能まではいかなくても様々な行事が小正月に行われる。

大正月と小正月、1月1日と1月15日では、行事的には圧倒的に小正月の方が優先。それは恐らく農業の一年のスタートを切る、そこの部分との関連性が非常にあるんだと思う。例えば雪の上に田んぼを四角く書いてそこに松の葉を刺す風習を、東北でもいろんな場所でやっていたと言われています。そういう時期であるという事が一番肝心なところです。

昔は根城(ねじょう)が中心地で、あっち(根城)にいた侍が遠野にうつり、その後、遠野町が中心になりました。遠野に移った侍達の江戸時代初期の書物に、自分の領地の百姓達を呼んで一緒に飲み食いしたと書いてある。それも小正月に。時代劇等で武士と百姓を敵対関係で捉える見方が2〜30年前頃まで特に流行りましたが、現実には、領地を管理するのが侍で、農作業するのは百姓だった。米が採れないと侍も困るんですよ。今年豊年になれば良いなというのは百姓だけの問題ではなくて、侍にとっても大事なことなんです。そういう形で一緒に飲み食いして良い年になるように的なことをやるんですよね。結果それが正月の行事として生まれる下地になり、そこに他の方から流れてきた芸能が上乗せされてって、出来上がっていくっていうのが一つの大きな形になったと思う

例えば東北一般には「田植え踊り」というのがあります。これは福島や山形、宮城にも残されており、えんぶりは田植え踊り系の芸能と言われています。私自身は田植え踊りを直に見たことないんですが、歌詞を見た時に、えんぶりで持ってる歌詞と同じのがあるんですよ。結局そこに書かれていること、今年良い年になれば良いな的なもの。これやっぱり百姓にとっては共通なんです。

一年の最初に”予祝(よしゅく)”と言って予め祝う。前もって田んぼを作る農作業をやってみたら全部うまくいったから今年は豊作になるぞという気持ちをそこに込めるわけですよ。で、そういう予祝芸”というのが東北だけではなくてもっと広く残っています。

東北では田植えが中心にある芸能が多いみたいだし、八戸の場合もえんぶりは、田植えで田んぼを均す”朳(えぶり)”という道具があって、予祝の中でも田均しの部分を重点的にやるという形が主流になって、使っている道具”朳(えぶり)”がなまって”えんぶり”になったんだって話があります。

そう考えると、えんぶりの中で重要なのは烏帽子を被った人達がやる”摺り(すり)”。その間に入る踊りは盛り上げの部分。予め祝うっていう部分を盛り上げる。今はあんまりないですけどかつては漫才とか、それから最近復活しつつあるのは手品系ですよね。南京すだれだとか金輪切りとか。そういう風なことで、摺りとそれらの芸が合わさって1つの芸能集団になっていくという形になるんですけども。

元々は旦那様の所、要するに土地持ち(領主)の人達の所に行くのが基本だったんです。あわせて、自分たちの土地を守ってくれるお宮にお参りする形が主流だったと思います。それが明治時代に入って今みたいに長者山(ちょうじゃさん)にすべての組を集める形に変わった。
例えば三社大祭も、始まりは日光神を動かすことで周りから人が集まるっていう形があって、明治時代にブラッシュアップしたのが今の形なんですよ。
それと同じで、明治時代に全部のえんぶりを決めた日程に長者山に集めてもう少し大きくやろうとなった。元々は地域それぞれで行われていたものが、中心地に行事として編成しなおした。明治以降になって様々な形で、神社も引き込みながら盛り上げていくような動きが大きくなったのではないかなと私は思います。それがえんぶりの基本的なところです。

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