チルボン仮面舞踊コラムシリーズ
② エンド・スワンダ インタビュー

この8月、三陸国際芸術祭にやってくるチルボン仮面舞踊。
天才的なダンサー ミミ・ラシナを発掘した音楽学者、
エンド・スアンダは語ります。

「当時我々が一緒に活動した事はとても幸運だったと思います。
さもなければ、現在もう何も残っていなかったでしょう。」

― ミミ・ラシナを発見した時の事を教えてください。

当時、私は人形劇の調査でチルボン地域などのワヤン・クリ(影絵劇)を研究してたんです。
私がラシナに出会ったのは1994年です。もう20年以上も踊ってないという状態でした。
旦那さんが亡くなって演奏する人もいなければ楽器もない、ガムランもないという状態でした。
少しだけ踊りを見せてもらったら、とても美しかった。
踊りに復帰する気は無いかと聞いたら
「無理だよ。楽団がいないのに踊りようがないでしょう。」
と言いました。
長い間彼女の伴奏をするのは旦那さんだけだったからです。
「でも、やってみましょうよ」と言って私はなるべく、インドラマユのスタイルに近い演奏者たちを探してきました。
それから、ひたすら稽古をしました。とりわけ踊り手と太鼓の関係が重要で、お互いのスタイルを理解するまで結局11年を要しました。

― 11年!?

そうです。稽古しては上演を何度も繰り返しました。それもあらゆるシチュエーションでです。
インドネシア芸大・フランス文化センター・ゲーテインスティチュートetc.
しかし、当時一番難しいと感じたのは ミミ・ラシナにまた村で踊ってもらうことでした。
なぜそれが大事かというと、踊りの精神は舞台に属するものではなくて、元々の村の環境に属するものだからです。
仮面舞踊のエネルギーはそこにあるのです。だから私は、踊りを出来るだけ自然な形で蘇らせたかった。

― それが成功した理由を教えて下さい。

それはもう彼女が素晴らしい踊り手だったからです。見たら誰でもわかります。飽きることなんてないし、カリスマがあるし。
1番特別なのは、彼女は体が小さくて痩せているのにクラナのような強いキャラクターを踊り始めるとまるっきり変身してしまうんです。小さくて控えめでやわらかい物腰からいきなり凶暴になる。それがラシナです。

― ミミ・ラシナの晩年の様子を教えてください。

やがてラシナが病気になりました。
幸運にも彼女は注目を浴びていましたから、個人にしても役所にしても、病気になってもなお、スタジオを良くしようとか衣装を良くしようとしていました。
当時すでに彼女は片腕が完全に麻痺していたのですが
「私が太鼓を叩くから踊ってください」
と言うとラシナは片腕で踊りました。
「また良くなりたい、また踊りたい…」
と。そして「もう一度日本へ行こう」なんて言ってましたよ。
彼女の心意気はこんなものでした。

(編集 : 佐藤典之)

ミミ・ラシナの魂を運んで、この8月、チルボン仮面舞踊が日本に、三陸にやって来ます。
ミミの遺志を継ぐ、孫のエルリ・ラシナのインタビューを次回はお伝えします。

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チルボン仮面舞踏コラムシリーズ① ミミとスアンダの邂逅

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その1