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シアタープロジェクト八戸 シンポジウム 第一部 『芸能が生まれる地~郷土芸能とアーティストの出会いから~』

  • 2021
  • 鑑賞

 出 演 : 磯島未来(振付家・ダンサー)

       チェ・ジェチョル(韓国太鼓演奏家)

       畑中大河(鮫神楽連中)

       原瑞希(十一日町えんぶり組・鮫神楽連中)

 進 行 : 小岩秀太郎(公益社団法人全日本郷土芸能協会 常務理事)




小岩:東北にはいわゆる郷土芸能がたくさん伝わっています。数百年前に作られた芸能をなぜ続けているのか、実際にやっている方々に伺います。登壇者のお話から、三陸地域になぜ人が集まるのか、郷土芸能とアーティストとはどんな存在かなどを解きほぐしていきます。この「出会い」というのは10年前の東日本大震災以降により言われるようになりました。もし三陸芸術祭(以下、三フェス)が三陸沿岸での数々の出会いと、芸能とアーティストの出会いを作ってきたと言えるのですが、今後についてはどういう考えていけばいいのかという話もしたいです。私自身、岩手出身で、鹿踊りの踊り手でもあります。登壇者の方々の気持ちに寄り添いながら、司会を務められればと思います。

鮫神楽、えんぶり……八戸の芸能が身近にある日々

小岩:まずは原さんから、携わっている『十一日町えんぶり組』のことなどお伺いしたいです。『えんぶり』というのは2月に開催されるお祭りですね?

原 :2月17~20日までの4日間やります。八戸市以外ではもう少し前にやっている地域もあるみたいです。田の神様を起こして豊作をお祈りするお祭りですね。

小岩:雪の寒い中は田の神様は寝ていますから、豊作の神様達をちゃんと起こしてあげないと食べられないんですよね。原さんはいつから始めたんですか?

原 :小学校に入る前かな。母に連れて行かれて気づいたらやっていました(笑)。子どもの頃は、小学校5~6年生のお姉ちゃん達がもっと小さな子達の化粧をしてくれたり、親方が男の子達の眉毛やヒゲを描いたりと、落書きしながら楽しんでやっています。1ヶ月練習して本番を迎えます。2月17日には「一斉摺り(いっせいずり)」といって、えんぶりの全組が集まります。一斉摺りまでの待機時間にはおでんを食べることになっていて、母が作ってくれるのが美味しいんですよ。

                                                    鮫神楽で演奏する原 瑞希氏

小岩:今はコロナ禍で飲食は難しいですよね。畑中さんの『鮫神楽』では、交流の場はどのようになっていますか?

畑中:練習はあります。終了後には感染対策をしながら反省会はしますね。「どうだった?」とか「今後はここを直せばいい?」と話が盛り上がってくれば、今後の神楽をどうすべきかについて話すこともあります。飲食の場はあった方がいいんですけれどね……自分は小学校3年生から神楽をやっていて、高校生からはお酒の席には飲まないですが同席していて、そこで昔の神楽の話や、国立劇場で上演した話を聞くことができる。お酒がまわるといろんな話をしてくれます(笑)たまに金言がポロっと出てくるので、それを子どもの頃から聞けるという経験値は大きいですね。そういう場に参加させてもらっていろんな話を聞くことで、よけいに鮫神楽に興味を持ち始めました。

小岩:神楽について、たとえば山伏神楽は、山伏(修験)が山を登ったりと苦しい思いをしながら能力を高く上げて、普通の人達にその力を与えるうちのひとつに豊作や人々の平和を願います。神以外に仏に願うことが東北には多くて面白いです。

畑中:神楽には、属してる神社があるそうなので。ただ鮫神楽は違う。自分達が好きでやっていて、神仏習合が生まれたから、仏のところへも踏み入れられるという話は聞きました。

小岩:一般的には『神楽』とは神様を楽しませると書くので、楽しいものだろうというイメージを持たれがちなんですが、「良い舞を見せたい」など苦労をする意識もあるのが面白い。踊っている時はどんな気持ちなんですか?

畑中:毎年、故人を弔う『墓獅子』を踊っていて「どういう気持ちですか?」とインタビューされる時には「依頼者のご先祖様に思いを込めて」とお話しするんですけれど、いざ供養するとなると「どういう気持ちでやればいいんだろう」という思いもありますね。なにが失礼にあたるのかとか、どうすれば依頼者の方が喜んでくださったり、泣いてくださったりするんだろうというのは、まったくわからないでいます。ただひたすらに力を込めて思いきり踊るということが、今の自分に精一杯できることですね。

小岩:供養の話は震災のこととも絡めて、また後ほど伺わせてください。畑中さんはいつから神楽を始められたんですか?また、ずっと一緒に踊られているパートナーの方がいますよね?

畑中:小学4年生から入部するクラブがあって、そのクラブ発表会で『鮫神楽クラブ』の踊りを見たんです。そこで初めて鮫神楽を見て、自分が保育園の頃から好きだった打楽器の太鼓の響きと笛のハーモニーによる音色がハマって「カッコいい!やりたい!」と。その時はまだ3年生だったのでクラブには入れず、たまたま回覧板に入っていた「鮫神楽やりませんか?」という案内を見て始めました。ずっと一緒にやっているのが、小学校からの同級生の小西です。パートナーといいますか「こいつじゃなきゃダメ」という感じです。自分は細身で小さくて跳ねたり飛んだりするのが得意で、小西は背が高くて体格も良くて力がある。凹凸がうまくかみ合った感じですね。お互いに、言葉がなくても目を見るだけで「じゃあ今のタイミングで」とわかるぐらいの相棒です。

                        畑中 大河氏
                     鮫神楽を舞う畑中氏

小岩:祭りや芸能に携わっていると、大人になる過程で「いつまでそんな古いことをやってるんですか?」と言われることもあると思うんです。そういった声はありましたか?

畑中:自分はもともと歴史など古いものが好きなのですが、高校に上がった頃には同級生に「まだやってるんだね」とか「やると何かあるの?」と言われることはありました。でも、何もないけど、自分が楽しいんですよ。小西もいるので楽しいです。

東京でのダンサー生活から移住し、大船渡の獅子躍へ

小岩:では磯島さんにもお伺いします。磯島さんは岩手の『獅子躍』をやっていますね。もともと東北生まれではありますが、地元を出てダンサーをしていたことから三陸にたどり着き、移住してきたんですよね?

磯島:はい、私は、鮫神楽がある鮫出身です。でも子どもの頃には神楽には参加せず、西洋のダンス教室に通って、ずっと踊り続けて生きてきました。震災後から三フェスの準備が始まり、2014年に大船渡で開催された時に私もスタッフの手伝いで入り、そこで初めて金津流(※地域や団体によって鹿踊りの表記は異なるが、金津流では獅子踊と標記する)を見ました。大船渡を中心とした各地から集まってきた70人が一列になって、遠くからぞろぞろ歩いてきた異様な光景でした。ただただ驚きましたが、踊り出したら、とにかく迫力に圧倒された。そこから芸能を追いかける旅が始まりました。もう思い切って大船渡に移住して習ってしまおう!と、子どもを連れて大船渡に移り、三陸町越喜来(おきらい)の金津流浦浜獅子躍りに入門したんです。

      三陸に来るきっかけを話す磯島 未来氏
(左から2番目)
                         磯島 未来氏

小岩:もともと西洋的なダンスを踊られていましたが、ダンスと芸能の近さや違いについてはどう感じます?

磯島:芸能の場合、初盆の家々に供養で躍りに行った時に、踊る目的がハッキリあるというところは違うなと思いました。亡くなった人を弔うとか、お家の人達に剣舞(※浦浜念仏剣舞)や獅子躍の元気な姿を見せて活気づいてもらう。じゃあ、今まで自分は一体誰のためや何のために踊ってきたんだろうと、一度立ち止まって考えるきっかけにはなりました。うちは大船渡の小さい集落で、獅子躍も剣舞もほぼ同じメンバーが踊るんです。剣舞は子どもから大人まで、獅子躍は大人ですね。私は獅子躍が踊りたくて大船渡に移住したんですけど、「うちは剣舞もやっているからまず剣舞から」だと言われて、一年目はずっと剣舞の練習をしてました。子ども達も一緒に踊っています。モチベーションは人それぞれだと思うんです。小さい町なので、参加しないと都合が悪いという人もいれば、本当に剣舞が好きで、持ち物全部に『浦浜念仏剣舞』と入れる人もいます。しかも文字は金色で入れています。(笑)たまに遠方から客人が来て飲んでいると、深夜になって剣舞を踊り始めるんですよ。酔っぱらっていても「腰が下りてない!」と本気を求める。とくに外の人が来て「剣舞ってどういうものなんですか?」と聞かれると嬉しいじゃないですか。だから頑張るし、私も指導され始める(笑)。

小岩:お祭りって皆が集まる機会ですよね。皆さん、小さい頃から知った顔でずっと踊ってきている。3歳くらいから90を過ぎても皆で育ってきているから、情熱はすごいですね。そこに磯島さんやジェチョルさんのように新しく人が入ってくる時の受け入れ方はどうだったんでしょう。

磯島:たぶん三フェスの準備のためにスタッフの皆さんが地元の団体に出入りするようになっていたので、少し風通しが良くなってたかもしれないです。そうなる前だったらきっと、その地域の人しか踊れなかったと思う。さらにもっと昔だと、長男しか踊れないといった縛りがある。そんななかで違う地域から女が入っていけたのは、時代と共に門戸が開いてきてるのかな。震災後に様々な人が出入りしている延長線上に、私達一家が入っていったので「ウェルカムウェルカム」という感じでした。

また、今は後継者不足も大きな課題なので、地域以外からの踊り手が増えることはすごく嬉しいことだったんだろうなと思います。でも、初めての時は体力が大変で……15キロぐらいのものを背負って踊っていると体力がどんどん落ちてきて、練習のようには飛べない。とくに頭を固定してる部分がすごく重いんです。男性用に作られてるからサイズが大きいので支えるのが大変ですね……。そもそも体の使い方が違うんですよ。ダンスは体を引き上げるように踊るけど、剣舞や獅子躍は地面を踏んで悪霊を追い払う所作があって、体重を下に落としていく。地面と繋がっている感じは、今までやってきたダンスにはなかった動きですね。体に染み入ってるわけではないので、まだ頭で踊っている状態なんだろうな。最初の頃は、失礼だけれど、ずっとダンスをやってきたし少し練習すれば踊れるようになっていくだろうという思惑があったんですけど、実際そんな簡単なものではなかった。神楽にしろ、見て「ああ~!カッコイイ!」と思っていたものが、実際に自分で踊ると見え方がまったく変わる。すごくしんどいので、体験してから見ると「すごい!」と思う。

小岩:何百年も前からあるのに、現代人が見てもカッコいいと思うのは、自分がその地域にいて、その地域から立ち上がってきたカッコよさを感じられているのかなと思うんですね。踊りをカッコよく見せようというわけじゃない。だって、さっきまでお酒を飲んでて寝っ転がっていたおじいさん達が、いきなり起きて踊るとすごくカッコいい!練習だって年間数えるほどしかしてないんじゃないかな。

磯島:いやぁ、本当にカッコいいですよね!飲んでいた師匠達が急に踊り出すと、70歳過ぎた方々が軽やかにまるで鹿のようにピョンピョン飛びまわってる。どういう加減で体を動かしているんだろうと毎回びっくりします。

韓国と三陸の共通点。海を越えて通じるもの

小岩:実は、三陸の芸能と韓国の芸能は近いんじゃないかと思っています。チェさんの踊りはいかがですか?

チェ:韓国には、農楽やプンムルと呼ばれる民俗芸能があります。その踊りはえんぶりとよく似ています。農楽の主なお祭りの時期もえんぶりと同じく冬で、旧暦の正月が明けて一回目の満月の時です。僕達は「テボルム」と言い、日本で言う小正月ですね。その時期は韓国全土でお祭りがあり、去年までの厄を地面を踏んで落とし、楽器を鳴らして皆で円陣を組んで、風と一緒に良い福が家の中に入ってくるようにと願い農楽を行います。
農楽はえんぶりと同じで、門付け芸がメインです。家々に向かって行って、家の前の庭などで、多いと30人ぐらいで踊ります。楽器の特性をお伝えすると、基本的には4つ打楽器があります。ドラ、低音の太鼓(プク)、チャング(チャンゴ)、リーダーとなるケンガリ(鉦)。ドラのリズムは1年の周期を意味していて、低音の太鼓(プク)が四季を、チャングが月や週や日にちを、そしてリーダーのケンガリが一番細かい時間を表しています。リズム主体の音楽の中、皆で時間のサイクルを流れを表現しているんです。1年を4歩で歩いて四季を感じる。
そして農楽で表現するものの中には「田んぼの収穫期」があります。秋に稲を刈るのが大きなエネルギーポイントになっている田んぼ仕事と共通して、12カ月(12拍子)のうち、9月(9拍)の時にグンッとアクセントを作ったりします。時の流れを表すリズムサイクルをぐるぐると何度も繰り返していきます。

小岩:三フェスでも踊っていただきましたね。

チェ:八戸では2016年に「トプロン農楽団」が種差海岸で踊りました。僕が八戸で韓国農楽を行ったのはこの時が初めてでしたし、前年は大船渡で三フェスに出演しました。「トプロン農楽団」の韓国メンバーの皆も楽しんでいました。韓国農楽は、米がよくできるように願ったり、厄を払ったり、福を呼び込んだりしながらお祭りで芸を披露していくんですが日本の芸能と似ている。参加した韓国のメンバーは「踊り方や歌は違うけど、芸能者として根っこに持つ思いが共通する人が日本にいて、一緒になにかできるのは良かった」と言っていました。

                                                      チェ・ジェチョル氏

小岩:それは東北だから良かったのかもしれません。震災があって、いろんなものが無くなったところから、前に進んでいこうとするなかで「我々には踊りがあるじゃないか」と思い始めていた時だったんです。ちょうど三フェスがあったからこそ、国を越えて一緒にできる場がタイミングよく作れたんじゃないかなと思います。
一方で、八戸の人達にとっては、韓国などほかのところから人が来たことをどう感じていたんでしょう?

原 :他の芸能を見たり、ましてや一緒に同じステージでやる機会は全然なかった。自分達と違うものが見られることにすごく興味がありますし、実際にやってみると意外と共通する部分があるのがわかる。新しいこともできるし、新しいことを知ることもできるし、ありがたい機会ですね。

畑中:他の神楽を見ることは滅多にないですよね。つい2~3年くらい前にやっと隣町の白銀の神楽を見る機会があって「あ、カッコイイんだな」と知りました。だから隣町どころか韓国からいらっしゃると聞いて興味がわきました。しかもお互いに好きな根っこが共通している仲間のような感覚で「そっちの扇どうなってるの?」「太鼓ってそうなるの?」と知り合うのが面白いです。

チェ:外国勢だと言葉の問題があるじゃないですか。日本語のグループと韓国語のグループにわかれちゃうけど、動いてると、お互いに真似をし合いながら体や音楽で会話できる。そのボーダーを超えた瞬間が、いつも楽しいんです。

畑中:インドネシアの芸能の方と一緒に踊った時にも、始めは「なんだそりゃ?」と思っていたのがいざ舞台に上がってしまったら、いつの間にか師匠がインドネシアの衣装を着て踊っていたりして。意外と師匠らの方がウエルカムなんですよね。ボーダーを越えた瞬間は自分もすごく楽しいし、少しでもテンポがわかれば自分の武器を持って踊れるのも楽しいです。

小岩:ジェチョルさんの他の活動のお話も聞いてみましょう。

チェ:僕は韓国の伝統的な太鼓を叩いていますが、活動のフィールドは伝統的なものもあれば民族芸能もあるし、モダンなバンド音楽もやったりと、幅が広いんです。また「チャンゴウォーク」という歩き旅をしていて、僕が育った東京から、祖父のルーツがあるプサンから100キロほど北の場所まで、のべ2500キロを、太鼓を叩いて歩きました。数年前には「チャンゴウォーク叩き歩きの旅、三陸編」をやりました。大船渡を出発して八戸まで300キロくらい太鼓を叩いて歩きました。途中、岩手県大槌町の臼澤獅子踊のところで寝泊まりさせてもらったんですが、案の定、着いた瞬間に「飲め」と(笑)。たくさん飲んだところで「そろそろだ。かぶりなさい」と言われて鹿子踊の頭をかぶり、「振れ」と言われるままに振ったのですが、4振りで僕はもうギブアップ!やっぱり体力がいりますね(笑)。
三フェスもそうですが、歩き旅の途中で出会う土地の人達は、「変わった人が来たな~」という感じで見てくれます。相手を威圧させるために叩くジャンルの太鼓ではなく、その場を寿ぐというか、豊かにするために囃し立てているのが農楽の太鼓ですから、夏場に太鼓を叩いて麦わら帽子をかぶって近づいていくと、コーラをくれたりするんですよ。でも冷たくなくて「ぬるくてごめんね」と言われたり(笑)。そういう出会いが生まれるのってすごく幸せなことだと思います。今はバスや電車や飛行機に乗って移動先で芸を披露しますが、昔は放浪の芸能者がいた。移動手段は足で、長いこと歩きながら自分で宣伝活動をして演奏を披露する放浪芸能者は、とくに朝鮮半島の中ではとても優れた芸を持っていました。彼らがいろんな地域の人達とお話をしたり、その地域の踊りを見てリズムを習ったりして、芸を洗練させていったという背景が、100年くらい前にはよくありました。僕も太鼓をかついで山越えをしますが、やっぱりナマの太鼓とナマの革は、山の中で叩くと響き方が都会とは違うんですよね。自分が叩いた音がワーっと広がってその音が返ってくる。大きな丸が感じられたりと、山から学ぶことは大きいです。 

                                                韓国の農楽について話すチェ氏

小岩:自分のふだんの場所とは違うところから学ぶことは多いですよね。三フェスもそうで、ほかの芸能との出会いがある。また、八戸市の文化芸術活動では、アーティストが市民の中に入り込んでいて面白いです。

チェ:僕は2014年の2月に青森県に来て、えんぶりというお祭りをやっているという情報を得て、ドカ雪のなか初めて見たんです。それがすごく心に残りました。東京に戻ってからYouTubeでえんぶりを調べて『【えびす舞】ハプニングだらけで大爆笑』というのを見ていたら、すごくコメディータッチだったんですよ。笑いと芸がリンクしていて、「この人達に会ってみたい」という思いで、八太郎えんぶり組に参加させてもらいました。組の中でとても楽しそうに太鼓をたていていた子どもがいまして、僕のえんぶりの太鼓の先生となりました。いま15歳です。8歳の頃に「教えて下さい」とお願いして弟子入りしたんですが、「先生、えんぶりの踊りの基礎って何ですか?」と聞いたら「基礎なんかないよ。とにかく太鼓を叩いて遊んで、とにかくやる」と言われました。でも、えんぶりってとても難しくて、僕はドラムも太鼓もパーカッションもいろんな打楽器をやるのに、えんぶりは何がどういう拍子になっているのかまったく感じ取れなかったんです。

原:私も、ほかの子ども達も、たぶん気付いた時には頭の中にメロディーが入っているんですよね。小さい頃から染みついているので、基礎というのがたぶん無くて、教えられないです。「見て覚えて」としか言えない。自分達も言葉で教えてもらっていないですから。

チェ:僕は太鼓を叩きたかったんだけれど、「太鼓を叩きたいならまず笛を吹けるようになってね」と言われて、笛の練習をしていたんです。すると「笛を吹けるようになりたいなら、裏の支度を全部わかってね」と言われて。えんぶりに参加した最初の1年は、子どもの世話や裏方をやりました。舞の道具や、衣装の着替えなどのお世話をさせてもらいました。すると、門付け中どのタイミングで笛や囃子が入ってくるかが見えて来るんです。長い目でもって、えんぶりの事を一から教えて下さった八太郎のえんぶり組の皆さんには、感謝の気持ちでいっぱいです。

小岩:練習をたくさんするということだけでなく、実際にその芸能に携わっている人達と会ったり飲んだりすることから、いつの間にか体が踊るようになっていくんですね。

チェ:5年かかってやっと訛りがすこしわかってきました。始めはなんて言ってるのかわからなくて……。でも慣れてくると、方言がわかるようになるというよりも、その人の感じで「これを言いたいんだろうなぁ」とちょっとずつ見えてくる。

小岩:そうですね。言葉とか知識がまったく違う人達が一緒にいるということが、いつの間にか芸能をつくっているんでしょうね。同じ練習場に3歳の子どもと82歳のおじいさんがいることもそう。

チェ:すごいことですよね。小さな子どもからご年配のおじいさま達まで「芸能」というワンテーマで、世代をまたいで皆で取り組んでいる。えんぶりだったらえんぶり。神楽だったら神楽。そこにさらに裏方のお母さま達もいる。僕が普段プロで演奏活動をしている現場だと、関わる世代がだいたい固まってしまうんですよね。それが芸能の現場だと、子どもからご年配まで幅が広いところが一番の魅力だと感じます。

どうしたら三陸の芸能が未来に続くのか?

小岩:魅力というと、芸能・お祭りをしていく人達は「この人がやってるから真似したい、続けたい」という気持ちがあると思うんです。今、皆さんが思うお祭りや芸能の魅力、そして、こうしたら次に続いていくんじゃないかということを教えて欲しいです。

                                                   進行:小岩 秀太郎氏

チェ:僕は芸能と触れあって一番強く思うのが、一人じゃできないことを、皆でやるということなんです。えんぶりでいえば、組の皆が揃って芸能を行うし、韓国の農楽も、基本的には最小単位の4人から、20~30人と数が増えつつも、その場の空気間を変化に合わせて即興で芸能を作っていく。複数の人間が、言葉ではない何かで会話をしながら芸を盛り立てていくことはつまり、すごく相手の気配を感じ取っている気がします。言葉以外の情報の中に、何かとても大切なものはあると思うんですよ。その大切なものを芸能に触れていると強く感じます。

磯島:コロナ禍でいろんな活動が制限され、私達は会えなくなってしまったんですよね。やはり会わないと始まらない。こうやって集まって、練習して、たとえば夏に踊りに行くと「あら、町内のおばあちゃん元気だ、良かった」とか生存確認の意味もある。一軒一軒わざわざ暑い中に行って、踊って、供養するだけでなくその家の人達と会うことがすごく大事だなと思う。どんなことがあっても、その地域をまわって歩くことだけは手放しちゃいけないんだろうな。皆の前で踊るために私達は練習をしてその日を迎えるので、やっぱり人と人が直に会って話したり踊りを見合うことが、すごく尊い時間だなとあらためて思います。

畑中:自分は高校の時に演劇をやっていたこともあって、舞台に立つ場面がとても多かったんです。その中でずっと思ってたことは「とにかく場が欲しい」ということ。鮫神楽を見ていただく場があることで知ってもらうことができるし、知ってもらえれば門付け(かどづけ)(※個人宅や商店などを回って芸能を披露すること)も怖くないはず。知名度があれば受け入れられやすくなると思う。そのためには、見ていただける場があって、そこに若い人が参加できる時間があれば、芸能は広まるのかな。コロナ禍でもオンラインという手段がありますが、コロナ禍が開けたらナマでフィーリングを感じてほしい。床を蹴る音や、蹴ることで響くものを感じてもらえることが、コロナ後にむけて大事なことかなと思います。

原:これまで、えんぶりや三社大祭は自分の人生に当たり前にあるものだったので、あらためてその魅力を考えてみたら、やっぱり人との繋がりと地域との繋がりだなと思いました。八戸にいたからこそ三社大祭やえんぶりや神楽に出会えたし、私は自分の組じゃなきゃこんなに長く続けてなかったと思う。今、コロナによって繋がりがなかなか持てなくなってしまったことをどうしたらいいのかというのは、考えても考えても答えは出ない。でも、この大事な繋がりというものを絶やさないようにして、自分達の後に継いでくれる人達に繋げていけたらいいなと、最近とても思っています。

小岩:ありがとうございます。芸能は誰かから伝えてもらったものなので、それを次の人になんとか繋げたいですよね。続けていく人が少なくなっていくけれど、何百年前の人達が作ったものをもう一度考えなおしたい。そして僕らだけで決めずに、次の時代の人達がどう考えるかを受け渡さないといけないという気がするんです。だからこの2年ほどはストップしていますが、これから後の人達のことを考えたら辞めない方がいい。辞めないでいたい。コロナや震災で、お金も命も続かないと思ったけれど、個人で決めて終わらせずに続けていけたらいいなと思います。そして、八戸や三フェスがそういった人達の思いを芸の現れとしてきちんと捉えて、広く知ってもらうプロジェクトを続けていくことに期待をしています。こんなに面白い人達が八戸や三陸にいて、続けようとしていますから。ぜひ、諦めないでやっていきましょう。

   




編集者:河野 桃子

写 真:株式会社フォートセンター惣門

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