岩手の剣舞に関して
Miroto Martinus
(2015年8月1日〜14日)

剣舞は、一年の間に亡くなった方の供養のため、毎年8月7日、日本の東北地方で行なわれる儀式的な踊りです。その一つの団体で、浦浜念仏剣舞という団体は、200年も前から岩手県大船渡市三陸町で受け継がれてきました。この団体は、70代の古水力氏がリーダーとなり、5歳から70歳代の踊り手や楽隊40名あまりのメンバーがいます。演舞は、1日中行なわれ、越喜来湾に面する地域の家庭を訪問します。

1ヶ月間、私は伝承館に滞在し、古水氏に念仏剣舞を習い、三陸国際芸術祭の港まつりに出演しました。私はこの期間、リサーチしながら、踊りを習い、芸術祭で地元の方たちに交じって出演するという機会を得ました。私が滞在していた伝承館は、5月に完成したばかりの建物です。古水氏が日本国内のいろいろな団体や個人から寄付を集め、建設しました。以前の伝承館は、2011年の東日本大震災による津波により、流されてしまいました。

今年、念仏剣舞は、27名の方々のため、8月7日と14日に行なわれました。7日、朝7時半から夜7時まで21名のために演舞しました。14日10時から14時、残り6名のため演舞しました。私も27名のために剣舞を踊りました。歩いたり、車を使いながら、家々を訪問しました。8台の車に乗り合わせました。2台のワゴンに、楽器や道具、飲み水を乗せ、6台の車に人が分乗して、10分から20分ほどの距離を移動しました。

この剣舞は、“見せる”ためのものではなく、観衆がいる必要はなく、霊に対して踊るものです。観衆のいないところで踊るということは、私にとってとても奇妙なことに感じられました。普段踊っているジャワダンスは、常に観客の前で踊ります。さらに、一日に何回も踊るという経験も私にとっては新鮮でした。ジャワでは、、、、。剣舞を踊るというのは、見せるためではなく、霊を供養するためです。訪問する家の方たちからお礼をいただくためでもありません。中には、封筒に謝礼を入れて渡してくださる家もありますし、お茶を用意してくださる家もありますが。

剣舞を踊ることで、自分自身と“観客”との関係性を考えるきっかけになりました。このことから、ベン・スハルト氏のことを思い出しました。彼は、ずっとジャワダンスが失ってきた本質を求め続けていました。

剣舞の演目について
剣舞には、太鼓と笛と歌が入る7つの演目があります。7つの踊りは、踊り手の持つ道具によって分けられます。念仏踊り(扇子と剣)、一本扇子(扇子)、十五(剣)、高館(剣)、綾踊(細い木)、長刀(Tombak)、二本扇子(扇子2本)。

剣舞の基本的な動きは、2種類の動きに由来しています。“へいまい”と“地団駄を踏む”という動きです。
“へいまい”は、へいそくを持ちながら、悪霊を追いやる手の動きです。へいそくは、白い紙でつくられたふさを短い棒に巻いた、清められた道具です。これらの道具は、たいてい、お寺や神社に置かれており、僧侶が使うものです。

”地団駄を踏む”動きは、足を踏み鳴らす動きで、悪霊を追い払う意味を込めています。悪霊は地上にいると信じられているため、足を踏み鳴らす(地団駄を踏む)ことで、悪霊が逃げ去るのです。”へいまい”の動きと”地団駄を踏む”動きは、踊りの特徴となっていて、道具を持ったり仮面をつけたりして踊るときの振り付けの基本となっています。道具の種類が、へいそくだけではなく、扇子や剣、杖などに変わっていった理由に関して、古水氏は「いつ、どのようにして変わったのかはわからない」とのことです。

踊り手の動きは笛の音に合わせており、笛が調子やリズム、テンポを決めています。歌や太鼓、踊り手の動きはそのリズム、テンポに合わせていきます。踊り手は、笛をよく聞かなくてはならず、動きは笛がつくるリズムやテンポに合わせていくものであり、歌もそれに合わせているからです。太鼓は、ジャワのガムランのように、力強さを表現します。

踊りの型

8月7日は霊が帰ってくる日だと信じられているため、各家庭は、誰もが訪問しお参りできるよう、家を開けています。この日、剣舞を踊るのです。団体は、亡くなった方がいる家庭を訪問します。(このとき、あらかじめ訪問することは告げません。)各家庭を訪問する際、年長者が先頭になって歩きます。到着すると、挨拶をし、縁側に香炉を供えます。香炉は、幅10cm、長さ20cm、高さ8cmの木製の箱です。家庭によっては、香炉を位牌やお焼香と供えたりもします。香炉は、仏壇と呼ばれる、仏像やろうそく、焼香、写真、お花などのお供え物が飾られているところに置かれています。剣舞の演舞の際、香炉は縁側へと移されます。

踊り手と奏者はお宅に着くと、すぐに準備を始めます。奏者は大きな太鼓を車から降ろし、踊り手は仮面の準備をします。特に合図もなく、最初の歌が始まり、踊り手は二列になって香炉が置かれている場所とは反対のところから入っていきます。まず、「念仏踊り」を踊りながら中心に進み、円形に並びます。霊の役の踊り手はへいまいの動きをしながらしゃがんだ姿勢をとります。黒い仮面をつけた僧侶役の踊り手は、輪の中心に立ち、香炉に向かって焼香する踊りをします。僧侶役の人は香炉を掲げながら、地団駄を踏む動きをし、時計回りに動いていきます。彼はときどき立ち止まり、霊の役の方を向きます。ghost characterは、僧侶に応え、お焼香の仕草をします。このように踊りの中で各家庭の香炉を使わせていただくことによって、剣舞が地域に根付いているのです。すべての動きがととのった踊りの中で行なわれます。

次に、霊役の踊り手が剣を持ち、一人ずつ僧侶役と対峙していきますが、その後、霊は静まります。十五の踊りは、攻撃的な仮面をつけた踊り手が叫びながら踊る部分に入ります。剣を持った踊り手たちが高館を踊ります。そして、歌をもって終わります。演目はだいたい15分から30分です。ある家には大きな庭があるが、例えば2m×10mほどの庭だと、20人の踊り手が円形に並ぶことができず、並列することになります。ある家庭には、普段駐車場として使われている1.5m×5mの場所があったが、香炉がないということがありました。このような場合、十五だけを演じ、10分くらいで終わることもありました。

最初のころ、縁側に座って見ている方たちの様子を見ていました。それぞれ反応はさまざまでしたが、穏やかな様子でありながらも、涙を流している方もいました。おそらく、亡くなった方を思い出していたのでしょう。

剣舞の経験を通して(8月7日)

七月七日という日には 親の御墓を 刈り払い
長い草をばカマで刈り 短い草をば手でむしる
御墓参りのその戻り 雨も降らぬに袖ぬらす

この歌詞は、初茶の家庭を訪ねた際、きよめの儀式を行なうときにうたわれる歌です。扇子や剣などの道具を動かす手の動きや、地面を踏みならす動きは悪霊の動きを象徴しています。観衆がいるかいないかに関わらず、剣舞は儀礼的な踊りとして演舞します。

儀礼としての価値をもつ歌や動きに対して、私は儀式的な経験に関して難しさを感じていました。なぜなら、踊るということに喜びを感じていたからです。衣装をつけている間、ジャワ島の伝統的な踊りの準備と同じように感じました。剣舞の衣装は、着物、胸当て、袴、腰当て、肩当て、背当て、頭、袖、手・足につける装具、靴下、仮面とあります。道具は、扇子と剣。僧侶役は竹の杖と香炉を持ちます.さまざまな装束を身に着ける剣舞の衣装は、ジャワダンスに似ています。

見せるための演舞と儀礼的な演舞を区別することは難しいと思います。なぜなら、芸術的な要素に違いはないからです。私はその雰囲気にとけ込もうとしました。この踊りの中に儀礼的な価値を見出そうとしました。儀礼的であるということは、観客からの要求に関わらないということですが、私の経験は常に見せることを求めてしまいます。

8月7日に21回、剣舞を踊りましたが、剣舞が持つ本当の意味を理解することはできませんでした。初日は、剣舞の持つコミュニティの絆という点に理解を向けていました。楽器を運ぶことを手伝ったり、移動中、車の中で太鼓を支えるなどをしました。

8月7日から1週間、踊りの振り付けや技術などに対して理解を深めていき、古水氏から剣舞の哲学に関して深く教えていただきました。毎年多くの霊が去っていくと話してくれました。「もし8月7日だけで終わらないときは、次の週、8月14日に続ける」と教えてくれました。

続きとなる8月14日、朝から雨が降っていたため、ほんとうに剣舞をするのかと思いました。予定通り、10時から着替えを始めました。かなりの大雨で、5歳から10歳までの子どもたちには踊れなさそうに思えました。そんな中、着替え始めました。30分後、通訳に聞きました。「こんな雨の中でも踊るのか」と。すると彼は「わからないけど、みんなはすでに車に移動していますよ。私たちも行きましょう。」と答えました。「たぶん、雨がやむまで車で待機するんだね」「たぶんそうなんでしょうね、ミロトさん」

8台の車は出発し、30分くらい移動しました。車がとめると、土砂降りの中、みんな、初茶のお宅に歩いていきました。屋根もありません。太鼓にビニルをかぶせて準備しました。雨の中、子どもたちもいっしょに踊り、みんなびしょ濡れになりました。美しい動きと音楽とひとつになりました。自分の内にある力と魂を込めて踊りました。

「念仏踊り」のとき、普段はしゃがみこむ姿勢をとるのですが、このときは地面に水がたまっていたため、立ったままでと言われました。この部分で、私は繰り返しの動きを踊りました。このシンプルな繰り返しの動きの中、身体も衣装も雨でぬれていたため、寒気を感じました。
雨のなかでの演舞は、真の意味で霊的な空間と時間を感じました。そこには、”私たち”だけが存在していました。涙があふれてきて、真のなにかを感じ始めました。踊りの美しさがわかってきました。雨で寒い中でも、魂が強い力を持ち続けていました。子どもたちもだれも不平をこぼすことなく、儀式は進んでいきました。剣舞は確かに儀式です。天候に左右されることなく、200年以上も続いてきたものです。このことを通して、ベン・スハルト氏を思いました。彼は誠実に儀礼的な踊りを行なっていた人でした。

剣舞とベン・スハルト

剣舞を踊り、ジョグジャカルタでベン・スハルト氏と踊ったことを思い出しました。ベン氏は、”laku telu”という、いわゆる”3ステップ”の考え方から即興についておしえてくれました。”laku telu”は”身体の動きがひとつにつながることの3つの考え方の応用”を意味しています。すなわち、敬意を示すこと、心を開くこと、辛抱強く待つこと。”laku telu”が目指すのは、踊りの型を示すことではなく、即興の基本となる動きや音に対して、敬意を示し、心を開き、忍耐をし自分を空っぽにすることなのです。

生徒の一人として、よく話し合っていました。1996年、歴史的な建造物の中で、エネルギーを得るために儀式的な踊りを演舞するという一つの考えを提案しました。私は、金曜日夜のkliwonのようなときに踊ることを提案しました。ベン氏は同意してくれ、Boko寺院、Ambarketawang宮殿などで踊ることになりました。金曜日夜のKliwonと火曜日のKliwon、観客のいない場所で演舞しました。

ベン氏は振り付けと儀式的な型を用意してきました。型はmandalaでした。ベン氏を中心に、Srimpiダンスのように4人の女性の踊り手が囲みました。踊り手と楽隊として10人が内側を向いて円形になりました。ベン氏は4人の女性の踊り手用に振り付けしました。ベン氏を含めてほかの人たちは”laku telu”を踊りました。音楽はKemanakという太鼓だけのとても単純なものでした。kemanakというのは、バナナのような形をしている楽器で、布をかぶせた木でできたものです。全員、ジャワの衣装を着ていました。

座った姿勢から始まりました。踊りが始まると、ベン氏は香をたきはじめ、ひざまずき、額を地面につけました。太鼓はゆっくりとしたSrimpiダンスのリズムを刻んでいきました。すべてが儀式的な動きでした。私は目を閉じ、内の声に耳を傾け、その場の空気を感じていました。”laku telu”の動きを行なっていました。敬意をもって、心を開き、待ちました。その雰囲気の中、心からなにかの動きが出てくることはありませんでしたが、”laku telu”の動きが導かれていきました。”laku telu”という考え方は、形をつくるのではなく、自然に生まれてくるように促すことなのです。

この踊りのとき、照明はなく、輪の中に小さな光だけがありました。その不思議な音、香り、深夜の雰囲気によって、私の内側から踊ることに対する感覚を強く感じました。私たちは30分くらい踊りました。その後、ベン氏は、その体験に関して一人一人の話を聞きました。そして、それぞれ家に帰っていきました。

観客の存在は批評する力を持っていますが、それは儀礼的な踊りにはあまり意味はありません。剣舞やベン・スハルト氏のような踊りを、見せるための芸能から理解しようとすることは難しいです。例えば、剣舞は路上で踊られるものとは違います。またベン氏は変わった踊り手だと思われていました。もしもだれかが見ることを望むならば、儀礼的な踊りの思想を理解する必要があります。

ジャワ舞踊の価値

ジョグジャカルタに伝わる伝統的なジャワ舞踊は、儀式的な踊りでした。しかし、娯楽性を求めたため、その要素はなくなってきました。儀礼的なものから娯楽性を強めた結果、踊りの精神を失ってしまいました。1980年代のSultan Hamengku Buwanoの日に、Nakula、Dewa Asmaraなどのような踊りをSultan宮殿で踊ったとき、ジャワ舞踊の儀礼的な意味を理解できました。その場にいた観衆は理解できなかったと思いますが、Sultanの存在感がありました。Sultan HB4世は、インドネシア共和国の副大統領であり、Sultanの椅子に写真を置いて、宮殿の中で演舞していたのです。

ジョグジャカルタのSultan宮殿のArjunaの踊り手であったベン氏は、ジャワの裁判所で踊る中で元々あった空気感を失ったと感じ、laku teluの動きに基づいた儀礼的な踊りをつくりました。悲しいことに、1997年、ベン氏は亡くなりました。ベン氏だけがこの問いに答えられると思いますが、剣舞を経験したことで、ジョグジャカルタで伝統舞踊の中で感じた儀礼的な価値を再発見できました。伝統舞踊が持つ儀式としての価値は、剣舞が日本文化の一部であるように、ジャワ文化の一部なのです。もし宮殿での踊りが儀式的なものから娯楽を追求したものへと変化していくとすれば、ジャワ文化が持つ精神は消えてしまうでしょう。このことに関しては、さまざまな局面で(公式のフォーラムであれ、気軽にお茶を飲みながらの場面であれ)、多くの議論が必要となるでしょう。