「習いに行くぜ!東北へ!!」 報告会&公開ミーティング

We’re Gonna Go Learn in Tohoku! Report Session and Public Meeting

11月15日(金)18時~21時30分 @せんだいメディアテーク

November 15th (Friday) 6- 9:30pm at Sendai Mediatheque

■スピーカー(出演順)

Speakers (In order of Appearance)

セシリア・マクファーレン(パフォーマー、演出家、振付家、アートセラピスト、ダンス教育者)
古水力(浦浜念仏剣舞 /金津流浦浜獅子躍保存会会長、大船渡市郷土芸能協会副会長)
斉藤道有(アーティスト、マルトさんかくなみしかく代表、気仙沼「気楽会」)
前川十之朗(みんなのしるしLLC代表社員、東京大学 csis研究員、未國主宰)

■参加者(あいうえお順)

伊藤み弥((一財)音楽の力による復興センター・東北コーディネーター)
岩関あや子((公)宮城県文化振興財団)
小岩秀太郎((社)全日本郷土芸能協会)
千田翔子((一財)音楽の力による復興センター・東北コーディネーター)
千田優太(身体表現人、ダンス幼稚園実行委員会代表、ARCT(アルクト)事務局長/宮城)
千葉里佳(からだとメディア研究室代表)
前田新菜(舞踊家・振付家)
八巻寿文(せんだい演劇工房10-BOX二代目工房長)
山田雅也(映像ディレクター)
横山恭子(フリー/制作・コーディネーター(福岡))
与野珠美(河北新報社メディア編集部、「やりましょう盆踊り」プロデューサー )

■司会

佐東範一(NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)

■議事録作成

北本麻理(NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)

[敬称略]

「習いに行くぜ!東北へ!!」第二弾 に参加して

【セシリア・マクファーレン】

今回日本に来るのは7回目で、うち5回はJCDNとの仕事です。以前来たときは自分が教えるとか、シンポジウムに出席するという仕事でした。今回は、見て、習って、プロジェクトの中に入って感じてみるという仕事でした。

今回は、見て、習って、プロジェクトの中に入って感じてみるという仕事でした。そしてそれは自分にとって素晴らしい体験でした。ダンスとしては難しい仕事ではありましたが、自分にとってはとても幸運な仕事でした。

本当は見ることのできない舞台の裏側であったり、古典的なことを学んだり、生活の一部を自分の身体を通して体験することができました。経験を通して、習いながらも常に頭にあることが東北の津波のことであるのだが、津波のことから受けたことをまだ言葉や身体を使って表現することはできないが、自分が信じていることは、すべての人が踊ることを許されているということである。そして自分の使命として、東北でも他の土地でも継続して行っていくことが重要であると考えている。継続して行っていることを東北で行うこと、芽生えていくことの可能性を見ることは重要だと考えている。ダンスという目的で来たが、いままで知らなかった日本や東北の生活についても習いながら知ることができた。
リアスアーク美術館を訪ねた時に伺った民俗資料館で見た漁具を見て、芸能の七福神を習っていた時に持っていた道具と同じだということを見つけた、ということにもあるように、踊りを習いに来て踊りを習っただけでなく、日本の有り方や歴史をも習ったのだということをじっくりを考えることができました。

クラシックバレエとコンテンポラリーダンス、を繋ぐ虹が交わっているのを感じてきたが、東北に来て別の虹を感じたのが、虹の片方の麓に自分の創作があり、また片方に郷土芸能があり、可能性を感じてはいるがそれぞれが虹として交わっているというまでにはまだ至っていない。今回学んだことから、エネルギー、創造性、焦点をあわせること(フォーカスすること)、そしてイギリスで教える際に使用する扇子を持って帰りたいと思います。

古水さんに芸能を習いに行った時、(まだ来日したばかりであり芸能に触れ始めたところで、一体何をからだに身につけて帰ればいいのか、正直わからなかった時)、古水さんに「何を持ち帰ればいいのか」尋ねたことがあった。すると、古水さんは「踊る心と精神を持って帰ってください」と答えてくれて、非常に感動した。古水さんありがとうございました。

【古水力】(Q=JCDN佐東、A=古水)

(佐東)今回どう思われましたか?JCDNというよくわからない組織の人が来て。

(古水)どうなるかわからない、というのが正直な気持ちでした。いろいろ、付き合うというのが、大事だと思うわけです。今の芸能を取り巻く環境というのが、次代を担う子供が減少している、ということに一番危機感を感じている訳です。そういう中で、どういうふうにして芸能を守り伝えていくか、ということが一番大きな課題である。津波の問題もあるにはあったが、津波の以前から、来るものは拒まず去る者は追わずというつもりで今までやってきました。小岩さんから電話が来た時にも、それが実現したら面白いのかなぁと、感じておりました。

まさか、外国人に教えるということは想定外。技を覚えるというよりも肌身で感じてもらうということが大事。笑顔のままで随分頑張っていただきました。それが何よりだったなぁと思います。佐東さんにお会いできて元気づけられました。何かしら閉じこもっていることだけではなくて、人との交わりを特に今回は感じました。家にいながら国際交流も十分果たしましたし。そういう意味では内容の濃い数日間ではあったのですけど。いい体験ができました。ありがとうございました。

(佐東)こちらこそありがとうございました。

(佐東)小岩さんにお聞きしますが、数ある芸能の中で、唯一古水さんと鶏子舞を紹介してくれた訳は?

(小岩)古水さんは元々大船渡に獅子躍があったというのを復活させた人。今までなかったものを作ってきた人。もう一度芸能を考えてみるということ。芸能は地域の中で育ってきたもの。信仰と結びついている。最初「習いに行くぜ!」にどういう芸能や人を紹介するか悩んだのは、信仰が関わるので、ただ行ってすぐに覚えられるというのは、やっぱりできないな、身体は確かにダンサーなのでついていけるのだけど、じゃあ心まではどうやって習うのか、というのは難しいなと少し引っかかっていた。ということもあり、なかなか紹介できなかった。

でも古水さんのように(先ほど仰っていたように)精神を持って帰って、触れてくれるだけでいい、とはっきり言える人が、外の世界と交流していくことによって、言える人がたくさん増えてきた。震災などで注目を集めることで、そういう人が増えてきた。

外から人が来てもいいんだ、という人が増えてきている中で、古水さんのように自ら習いに行って、まだ戻して自分たちのところで20年間活動を続けてきて、次の世代を育ててきたということをやり続けていたところなので、ベストだと思った。

(浦浜については)古水さんの考え方が、子どもたち(古水さんの息子さん世代たち)の姿を見ていて、踊りがうまかった。精神だけでなく技も。沢山ある鹿踊の中でも浦浜のはすごい。それを見て教えるに値する人だなと勝手ながらに思った。

鶏子舞は女の人と子どもがいること。基本的に芸能は男の人が携わっているという側面が多いので、女の人がやっているということは、そういう枠を外してやって踊っているということなので、そういう考え方をみんな考えられるようになっているので、だから女の人も子どもも男の人もみんな出来るという場所や機会を作っているので、外から来ても対応できると考えた。

【マニシア】

「習いに行くぜ! 東北へ!!」は、誰でも考えられることだけど、すごいアイデアだと思った。今までは何か自己満足で終わっていたような気がする。今回はたくさんの人と出会えた。

そこから何かできる可能性があると思った。災害=ネガティブ、芸能=ポジティブと感じた。そのポジティブ部分にフォーカスして、交流する。交流を持つことが力になるプロジェクトだと思った。

古水さんとの出会い。熱い人で、(浦浜)獅子躍と剣舞も熱い踊りだった。剣舞が亡くなった人の家を回るということを聞いて、自分の創作部分-長くスピリチュアル的なことをやってきていたが、随分昔から自分が生まれた国がやっていた、ということを知った。鶏子舞の手さばきを習った時に、アメリカのモダンダンスに似ていると思いながら、日本にはモダンダンス以前にこのような動きがあったのだということに感動した。

被災地で自分の身体を使うにはどうするという、実験的な試みをした。自分で選んだ場所で踊り、踊ってみたらどうなるか。それぞれのダンサーが踊りたい場所を見つけて、東北で得たことを表現する、周りの人がいなくても、ダンサーは人に紹介するだろうな、私だったらどうするか、やりながら感じながら可能性の種を創れた。この気持ちを芸術として福岡に持ち帰りたい。福岡では震災が過去のことになっている。しかし、何百年と続くこととして福岡に持ち帰りたい。また、セラピストである自分は西洋人の身体を持ち込んでいて「さぁ、やりましょう」とやっていたが、郷土芸能を通して日本のありがたさとかを、郷土芸能を一つのツールとして使ってセラピーができるのではないかという、未来を思い描くことができた。

【斎藤道有】

「気仙沼を楽しむ会(気楽会)」の活動は7年になる気楽会として15回の活動を行ってきた。気楽会(きらくかい)とは、「今ある気仙沼を積極的に楽しもう!」「気仙沼を自発的に楽しくしよう!」という想いを持つ、現在30代が中心の地元有志の集まりです。気楽会は2006年10月1日に発足し、現在6年目を迎えていますが、私たちの想いは発足時に掲げた「気楽会宣言」に表れています。

(気楽会ウェブサイトより)
一、私たちは、気仙沼の魅力を掘り起こし、我がまちのすばらしさを地域内外に発信します。
一、私たちは、熱き心とチャレンジ精神を持って、笑顔を絶やさず行動を起こします。
一、私たちは、同世代の仲間との絆を深め、若い力で気仙沼を盛り上げます。

その他は会則や規約、メンバーという括りもありません。決 まっているのは、毎週「定例会」を開くこと。コーヒーを片手に、雑談中心にそれぞれが普段考えていることや思いついたアイデアを気軽に出しあっています。 雑談の中でなんとなくアイデアが一つの方向に盛り上げれば、「この指とまれ」で具体的に企画化し、いざ実行。できることを、自分たちですぐやってしまうの が気楽会のスタイルです。

これまでの活動としては、気仙沼の若者同士がフランクにつながり交流できる場「Katari Bar」の開催や、地元の隠れた食文化であるホルモンに着目した「気仙沼ホルモンMAP」づくり、JR南気仙沼駅の空きスペースを活用し、「勝手に観光案内課」と称しての観光客へのおもてなし、そして、震災後の2011年9月より開始した「気楽会の観光案内課~ひと巡りツアー」など。様々な企画を、自由な発想と、気軽なフットワークで、何よりも自分たちが楽しみながら実行しています。

楽しいことを求めて、どこかの面白そうなイベントや企画に参加するのも、もちろんいいけれど、一番楽しいのは、自分たち自身で考え、アイデアを発想し、それを仲間たちと企画・実行することのはず。また、そんなふうに自らの手で楽しいことを創り出せる人が一人でも増えること、それこそが、気仙沼を今よりもっと楽しい街にする一番の近道だと私たちは考えています。

そんな気楽会の活動は、発足時以来、毎日更新している気楽会ブログで発信していますので、興味を持っていただければ、ご覧になっていただけると嬉しいです。

<「習いに行くぜ!東北へ!!」との共催について>
今後の活動を踏まえて、人が動き続ける事が重要、被災地ではなくなったときに地域のアイデンティティを持ち続けるために、人を動かすきっかけ、人が交流する場を一緒に作る、できた関係性を次のアイデアにつなぐ。郷土芸能に取り組むことによって、いろんな事が知れると考えている。

<唐桑町神止まり七福神について>
女性だけで歌い踊り太鼓をやる、七福神。震災後地域の伝統芸能を目にする機会が増えた。これからどうしていくかというとっかかりとなった。会長さんに今回はなしを聞いて、今まで抱いていたイメージとかけ離れていた。始めた頃は10代で、衣装、振付も自分たちでやっていた。そこから66年続けてきたということをあらためて知り、長い時間続けてこれた凄さ。新鮮な驚きがあった。漁師町では女性は家を守り、農業をし、子育てをし、どういう娯楽があるのかと考えていた。退屈な時間が長いのではないかと考えていた。たくさんのものがないからこそ、顔見知り同士の関係の中で、作りながら、私たちの町の文化です、と言えるものを作り上げてきた。

<浜甚句について>
歴史は古い。甚句は7・7・7・5のなかで地域のこと、内容ひとつひとつ歴史と結びついている。初めて知った。生きている地域が再発見できた。こういうものの中に(地域のことが)詰まっていることに気づくことができたことが大きい。

(「習いに行くぜ!東北へ!!」が)今回は手がかりとなった企画。地域の中で参加者を増やし、自分たちの伝え方を考えていきたい。

【生島翔】

<今までとの違い>
父親が気仙沼出身で、東北で何かできるか考えてきた。仮設住宅や学校で子どもたちと一緒に身体を動かしたりするワークショップなどを震災後行ってきた。しかし、被災地に何か教えに行くという、立ち位置が気がかりになっていた。東北とどういう付き合い方ができるか。また、自分自身は海外での生活も長かったが日本の文化について何も知らない。何か(ダンスと芸能や日本の文化が)つながるか。

今回違ったことは、東北の人が教える側なので、食い込んできてくれる。教える人たちが一生懸命手とり足取りセシリアに教えてくれる。そんな様子を見て、新しい関係性だと感じた。

また、今までは来てくれてありがとうと言われていたのが、今回は自分たちがありがとうございました、という立場になれた。それが被災地との新しい付き合い方だなと感じた。

<若者との出会い>
南三陸、(気仙沼)唐桑丸、30代の青年たちと出会った。一緒に何かしようよという話し合いが進んだことが「習いに行くぜ!東北へ!!」での大きな収穫だった。南三陸のひとたちと話していて、自分たちが楽しめる千年続くお祭りを作りたいんだ、と聞き、それを考えた時、壮大な計画であると思った。ただ、一回限り、一過性のものにしないために東北の魅力、東北じゃないと体験できないことを作らないと、という提案をした。

南三陸のメンバーの一人から七福神を踊らされた。船に乗せられた、後ろでは花火が打ち上がっていたというのを聞いて、すごくかっこいいと思った。そんな他所の人間が聞いてかっこいいと思うことを南三陸の人たちが子どものころにやっていた。そんなことを話しながら、南三陸の人たちにとっても確かに面白いと感じられるような話し合いができた。

自分の持っていた経験を違う角度から、外から来た人の角度から話すことによって、自分たちの経験や知識を別角度でみれたということを言ってくれた。いろんな人達と話せる場を設けて話していると、違った視点でものを見て、東北のかっこよさ、魅力的なところを探して行けたらなと考えている。

「習いに行くぜ!東北へ!!」も参加者が多かった訳でなく、郷土の祭りも人がたくさん集まるのも難しいが、とはいえただお祭り騒ぎがしたいというわけでもなく、その中道にあるかっこいいと思える東北を探すために、今回の企画で若い人たちに出会えたし、芸能を習うことができた。このことを始まりとして東北との新しい付き合い方を探していける礎になりました。

【前川十之朗】

ベルリンにいるときに、震災があった。原爆を題材にした作品を上演していた。東京大学防災科学研究所の取材員を募集しているのを知って。いきなり大船渡に入って、オーラル・ヒストリーの取材を敢行した。知らない土地で仮設を回って、そのデータが国会図書館に入っている。そこから得たことをアウトプットしたいと会社を起業した。

昨年度碁石の虎舞を学ぶことをした。限界集落の良し悪しがある。違う集落のものを習いにいくということをすると、もう話をしないといわれる地域である。

古水さんは自分の地域だけでなく、唐桑や陸前高田のことを考えている。これからはそうじゃないといけない。どうやってみんなが手を組んでいくか。

【北本麻理】

郷土芸能そのものよりも、実際に習いに行った地域に滞在する中で体験した、芸能がどのような存在であるか、というのを報告したいと思う。末崎の民宿に滞在していた時に、近所を散歩していた。民宿がある場所も津波の被害にあっていて、ポツポツと仮説の商店があるようなところだった。その一つの商店を尋ねた時、始めは商品についての話などをしていたが、実は私が七福神を習いに来た、と話したら1杯のコーヒーを入れてくれて、とても面白いのでもっと話を聞かせてほしいと言われた。

それからは、今までに芸能を習いに行った地域の話をしたり、末崎にある芸能の話をしたりして時を過ごしたが、最後にその商店の方が、津波が来る前と直後の写真を見せてくれて、どんな生活を送っているか、という話をした。芸能のことが話題になったことで、その地域の人との距離が近づいたように感じた経験だったし、私自身も今度訪れた時また話をしに行きたいな、とも思えるような経験だった。

【千田優太】

自分が参加した時は、ダンサーがここに来て何ができるかという時期であった。まだ町のことについてよく知らない自分が、何ができるのかということをすごく考えるきっかけになった。町の新しい見方が自分の中でも生まれた。ダンスを通して。すごくいい経験だった。

報告会を聞いて面白かったのが。七福神が演芸大会から始まったことが、継続することで伝統芸能になるということが面白いと思った。

(斉藤道有)無形文化財になることで、プロ意識みたいなものが生まれたと思う。伝統とは何かということを考えるきっかけになった。

今日が会ったことのない大学の先輩の命日で、自分の所属するクラブでは命日に献花することが続けられてきた。それが大学を卒業した今でも続けられていることを知り、これが伝統につながるのかと思った。そのことと、七福神の話を聞いた時に通じることがあると感じ、これから継続して自分たちが続けられることが何かということが、これからの郷土芸能を後世に残すということで大事なのではないかと感じている。

「習いに行くぜ!東北へ!!」第一弾 に参加して

【千田翔子】

みんなで踊るのが楽しかった。見よう見まねであらゆる世代が交じり合いながら踊ることができるのが楽しかった。

お盆ということで、あちらの世界の人たちを楽しく迎えることができた。もしかしたら踊りの輪の中にあちらの人たちが混ざっていたかもしれない。けれども、それもわからなくてもいい。昔は顔を隠して踊っていたということも聞いたことがある。

こちらの世界の人間とあちらの世界から帰ってきた人間とが、一緒に踊っていると言われてもおかしくないような風景だなと、特に亘理で思っていた。

【千葉里佳】

唯一参加できたのが南三陸だった。(しかし、若者が企画して音頭も最近のポピュラー音楽を使用したものだったので)イメージしていた(昔ながらの)盆踊りとは違っていた。ノリが違うのがわかった。盆踊りならではの雰囲気というよりは、若者の体育会系っぽい雰囲気になっていて「何か違うのかな?」と感じていた。

※2013年の南三陸で行われた盆踊りは河北新報社の「やりましょう 盆踊り」ではなく、自分たちで企画されたもの。踊りも知り合いに振付を依頼して創作されたものであった。

【伊東み弥】

閖上で育った。中途半端な田舎だったので、郷土芸能が伝承されるような地域ではなかった。神楽を見に行っても変な人と思われていた。盆踊りもやっていない学校で「閖上大漁歌い込み」を踊らされてもダサいと思っていた、という人生を送ってきた。

今回何十年ぶりに踊ってみて、行く先々で北海盆唄が踊られていて、ちょっとづつバリエイションがある。歌すらアイデンティティになってないので、盆踊りという習慣は不思議だなと思った。なので、獅子踊や七福神とは違った、いづらさというのを感じている。
盆踊りは手踊りが多い、獅子踊は下半身を使うダイナミズムさがある。その違いについて、専門家に聞いてみたい。踊ることは面白い経験だった。社会やコミュニティに踊りや芸能があることはいいことだと思ったから、今後私たちがコミュニティなどを作っていった時に、踊りや芸能などを核に入れたいと思った。

【千田翔子】(松島/盆踊りについて)

(北本)松島の盆踊り唄(大漁唄い込み)と末崎で聞いたご祝いの前歌と同じ節だったので、つながっている不思議さを実体験した。
松島に盆踊りに行った場所に再度訪れた時、その場所が津波を受けた後遺体が沢山並んでいた場所だったということを知った。踊りに行くだけではわからないことがあるということも知った。

【与野珠美】

2012年、13年と踊り手ボランティアとして、また浴衣を支援してもらいました。支援という言葉とは違うのかもしれないが、一緒に楽しんでもらいました。お陰様で5箇所づつできて、最低3年間はやりたいねということで、来年(2014年)の夏もやりたいと思っている。規模は企業協賛がどれくらいになるかによって、櫓がどれくらい建てられるか、など考えながら、5箇所での開催を目指したいと思います。

自分自身の考えでは盆踊りは伝統芸能で、保存会や地域の方がずっと練習して伝えているものと、パフォーマー(踊り手)が自分を発露するものとの間にあるような感じがする。

踊り手の一人にもなるし、踊っている様子を見ると人生を組み立てている一つのパーツになっているように感じる。例えば相馬盆唄は宮城のいろいろなところで伝わってきて、いろんな踊り方になっている。踊り手ボランティアとして参加している人も、「この踊りは自分の踊りとは違うから」と言って、違う列で踊ったりしている。そんなやり取りがいろいろと繰り返される中で、(盆踊りに参加した人が)自分が踊っていたものはこれだ、ということを取り戻した嬉しさや自信を感じて。なので、どんなに間違ったものが伝わっていてもある程度続いていくとそれが伝統になっていってしまう。そういう歴史が刻み始められる。なので、横から来て「それは違う」っていうことをうかつには言えないなと思っている。

伝統の一部でもあるし、地域の伝統でもあるし、踊り手として(伝統の)一人にもなる。誰でもができる、ということから盆踊りが被災地の新しいコミュニティと繋げていくツールとして使えるということをサポートしたいと考えた時に、すずめ踊りでもヨサコイでもなく盆踊りがいいのではないかと、周りの人が言ってくれた。盆踊りは、チームである程度の練習を経なくても、呼ばれてその場で入って波の中の一つになれる。間口やハードルが低いからいいじゃないの、と背中を押してくれた。そんな盆踊りを、一度はなくなった環境の人たちでも、またやれるようになる環境づくりのお手伝いを、規模を変えてでもやっていきたいと思っている。来年以降の展開として、現地に行かなくても現地の踊りを仙台の街なかで、被災地で演奏している盆踊りを街なかでやる、という盆踊りをやれたらいいなと考えている。踊ることによって沿岸部のこととちょっとリンクする、ずっと忘れない、繋がっているというようになれるかなと思う。開催した場所場所の盆踊り唄を持ち寄り「盆踊りフェスティバル」ができるようになるといいなと考えている。その際は、踊りや芸能などをやっている様々な人から意見などを聞きながらやっていきたいと思ってる。

報告会に参加して

【横山恭子】

ずっと、福岡などで佐東さんと会うたびに企画のこと、東北のことを聞いていた。なので、いつか参加しなければと考えていたが、やっとこの報告会で参加することができた。おそらくこれから参加者全員が強いメディアとなって、いろいろなところに情報を発信していくのだろうな、と思いながら話を聞いていた。

また、よそ者だからできるということが沢山あるんだろうな、と考えた。では自分がよそ者として何ができるのかということを考えている。特に海外から言葉の通じない人が来ることで、ブレイクスルーできるなにか、というインパクトが地元の人にとってもあるのではないかと思う。

【小岩秀太郎】

郷土芸能という言葉を使ってもらっているのが良い。郷土芸能という言葉は学問的に使わない。学問では民俗芸能という日本でもほとんど忘れられている言葉、戦争前までしか使われていない言葉。学問的には民俗芸能というし、伝統芸能だと歌舞伎や能・狂言など変わらないものとしてプロフェッショナルとして続けているという意味合いを持つ。

郷土芸能とはその郷土に住んでいる人、郷土に精神がある、例えば命に対して花を手向けるという精神が郷土にある、ということが芸能化したというのが郷土芸能だと思う。

そういうものが、今の日本にもあるということを伝えていきたい。一般に郷土芸能と言っても今までは伝わりづらいことがあった。ただ、東北は食べ物など、さまざまな郷土色から地域の特性が見えるような土地であり、そこに芸能があったということを伝えて発信して行ければ、郷土芸能が日本の文化であると考えられる様になると思う。そのようなことから、「郷土芸能」という言葉を使っていることがいいなと思っている。

【山田雅也】

ボランティアの時期を越えて、地域との関わりということを考えた時、(その地域に対して)新しい人が来た時に、一番最初どうしていいかわからない。その際の共通言語としての「郷土芸能」が有効である。「ここにはどのような郷土芸能があるのですか」という会話を切り口にして、その地域の人とのコミュニケーションが取りやすくなる。芸能がコミュニケーションを取るための、ひとつのツールとして捉えられると考えた時に、芸能を習いに行くことと、習った後に何ができるか、を「習いに行くぜ!東北へ!!」がどのように発展させていくかを期待したい。

【八巻寿文】

現地の芸能をやっている人と触れ合っていると、いろんな人が被災地に支援をしにやってくる。そんな大勢の人が来るところに習いに来る人が来ても大変なのではと思う。また、(郷土芸能従事者が)プロダクションに所属しているダンサーではないので、自分の生活の中で他に仕事をしながら、芸能の活動を続けている。また、土地に根ざしている分、地域性も限られている。だから、なかなか難しいのではないかと思った。しかし、若い人たちに伝承するため、小中学校へ教えに行く団体もあるので、そういうところが狙い目なのかと思っていた。

ただ、今日の報告会に参加してみて飛び込む勢いの強さというのもあると感じたし、小岩さんのコーディネートが良かったのだと思うが、(「習いに行くぜ!東北へ!!」の様子を見て)この輝きは、してやったりという感じで良かったな、と思って報告会での話を聞いています。

<編集後記>

当日の報告会&公開ミーティングの冒頭では、「習いに行くぜ!東北へ!!」の記録写真を上映しながら、実際に行ってきたことの説明をした。
(サイト内【report】参照)
その後、参加者の皆様からの報告、感想を伺った。
限られた時間の中での実施レポートと意見交換となったが、被災地の郷土芸能に目を向けながら、日本の芸術文化の可能性を探る機会となったように思う。
特に、セシリアの存在があったことで、日本の郷土芸能とは何か、それは海外の人にとってどういうものとして捉えられるのか、外からの視点と外へ向けた視点の双方を意識することができた。郷土芸能を一つのツールとして、日本の文化を海外へ発信することをこれからも考えていきたいと思う。
また、古水氏の言葉にあるように、「心や精神を持ち帰る」ということは、イギリス人のセシリアだけでなく、日本から参加したアーティストにも共有できることだと思う。東北の被災地に赴き、芸能を習い、地域の人と語り合いながら、その土地の記憶に触れること。その心や精神を踊るということで、それぞれどのような活動を展開していくか。これからも東北に関わること、またそれを発信していくことを継続させていきたいと思う。

(JCDN北本)