アジア芸能レポート3 インドネシア/インドラマユ&ジョグジャカルタ編
武藤大祐
インドラマユ
2017年2月23日深夜、ジャカルタ空港から車で5時間ほど東に移動し、ジャワ島西部の海岸沿いの街、インドラマユに到着した。西ジャワ州の芸能といえば州都チルボンの仮面舞踊(トペン・チルボン)がよく知られるが、いくつかの流派があり、その一つの拠点がインドラマユである。
トペン・チルボンは、インドネシアで地域芸能の調査が始まった1980年代から注目され始めた。そうした動向の中、傑出した名人として1990年代末から国際的に知られるようになったのがインドラマユのミミ・ラシナ(Mimi Rasinah,1930-2010)だ。1970年代から活動を停止していたミミ・ラシナは、音楽学者のトト・スアンダ、エンド・スアンダらによる「発掘」とともに一躍脚光を浴び、1999年の日本公演(https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/archive/information/old/9911/11-01.html)を皮切りに国外にも紹介されるようになった。
ミミ・ラシナ
2010年、ミミ・ラシナは惜しまれつつ亡くなったが、孫のエルリ・ラシナ(Aerli Rasinah, 1985-)が後を託された。現在の「ミミ・ラシナ仮面舞踊スタジオ」は州政府や企業の支援を受け、子供から大人までたくさんの生徒で賑わっている。
ミミ・ラシナ仮面舞踊スタジオの看板
スタジオの周囲は田畑と住宅、向かいは共同池。のんびりとした時間が流れる
まずはエルリによるトペン・チルボンを拝見した。トペン・チルボンはジャワに伝わるパンジ王子の物語の登場人物を演じる独舞で、次々に別の人物の面に付け替えながら、それぞれの人物の性格を表現していく。
踊りの前に、面に香を供える儀式
様々な面(トペン)
最初はエルリによるパンジ。動きが小さく、また少ないため、非常に難しい踊りで、訓練を積んだ踊り手が最後に修得する演目だという。
エルリ・ラシナのパンジ
どっしり腰を落とし、ほとんどと言っていいほど動かない重厚な身体を背景にしつつ、腿の辺りで右手指を動かすだけ、左肩を小刻みに揺するだけ、などの局限された動きがいちいち鋭く目に刺さってくる。生きた体は常にあちこち動いているから、静止させておくには、体の中の小さな動き(力のベクトル)の数々を打ち消す微細なコントロールが要る。ジャンルを問わず、「静止していても鮮やかに浮き立つ強い立ち姿」というものがあるが、それはこうした細かな力と力のぶつかり合いが感じられるからだろう。そしてこのパンジの踊りは、そうした静止した体の豊かさを浮き立たせるために、あえて最小限の動きだけを見せているように思えた(素材を味わうために、わずかに振られた塩のようなもの、といったらいいだろうか)。
近隣の田園風景の中で撮影したエルリ・ラシナのパンジ
エルリは5歳の時に舞台の事故で大火傷を負い、一時は絶望視されたが、祖母であるミミの薫陶を受け、正統な継承者になった。ミミによれば「正統」の資格には二つの条件があり、一つはパンジを踊れること、もう一つは民衆の求めに応じて踊るという本来のトペン・チルボンの務めを全うすることだったという。
次は、荒型のクロノ。クロノはパンジ王子の宿敵である。
エルリ・ラシナのクロノ
一転してダイナミックで力強い踊り。速度と質感があまりに目まぐるしく変化するので、視覚的に追い切れず、何が起ったのかわからなくなる瞬間が何度もあった。強烈にバネを効かせた手首の動きはとりわけ特徴的で印象深い。ストップモーションのように動きを止める語彙はジャワ宮廷舞踊とも共通するが、止める瞬間にビクッとした震えで反動を誇張することはなく、あくまで淡々としている。
午後、スタジオに通う子供たちのデモンストレーションを見せて頂く。一度に教えられるのは最大で50人程だが、生徒の総数は1000人を超えるそうで、遠方から親の送り迎えで通っている子供もいる。
青い服の女性がエルリ
時代の波に取り残されてかけていた昔ながらの演芸が、州政府の公認を受けてメジャー化し、子供たちにも人気の習い事になっているというのは興味深い。格式の高い古典芸能ではなく、地域の民衆の生活感覚に根差した芸能ならではの、現代的な伝承の形態といえるだろう。
人の集まるスタジオの脇に、いつも屋台を出している男性がいる。トペンの上演がある時は、ふだんから村の隅々を回っている彼が情報を広め、さらにはチケットまで販売するという。芸能が地域社会の一部として生きているさまを物語る。
市場で見かけた屋台のお面
ミミ・ラシナはチルボン仮面舞踊の家系で九代目とのこと。日本軍の占領時に仮面は兵隊にすべて踏み潰され、ただ一つ奇跡的に残った仮面が大切に伝えられている。しかし以前この仮面を付けて踊った者の顔から外れなくなり、ついには顔の皮膚の方が剥がれてしまうということがあった。以来誰も使っていないという。
いわくつきの仮面とミミ・ラシナ
スタジオの隣は墓地で、ミミ・ラシナも埋葬されている。そのすぐ脇には一家を守護する樹が祀られている。舞踊の伝統と、家の歴史の濃厚な存在感が漂う。
ミミ・ラシナの墓
一家を守護する樹
ミミ・ラシナより10歳年下の、もと小学校の校長先生にも話を聞いた。トペン・チルボンはスハルト政権期に抑圧されていたというが、この先生は1960~80年代にも国内各地の会議等で踊りを披露していたという。
翌日は、歩いて五分ほどのところにある、かつてのミミ・ラシナの住居兼スタジオだった家を訪れる。晩年まで赤貧の中で暮らしており、家の修理も日本人の援助によるものだという。エルリに素踊りを見せてもらう。音楽なしで軽く流す踊りっぷりにかえって「血」の濃さを感じる。
(付記)
インドラマユに二日滞在した後、ジョグジャカルタへ向かったのだが、そのジョグジャカルタの最終日、筆者の友人のもとにミミ・ラシナを「発見」した一人であるエンド・スアンダ本人から連絡が入った。偶然にも「ジョグジャカルタに滞在中」との情報。早速アポイントをとり、話を聞くことができた。
エンドによると、当時ミミ・ラシナが20年余りに渡って踊りから遠ざかっていた背景には複合的な理由がある。スハルト政権期には民俗芸能が共産主義の温床と見なされる傾向もあり、芸能自体の人気は衰えていた。そこでミミの夫は新しいスタイルの演劇を始め、ミミはその上演のためのガムラン演奏に徹していたのだという。
1994年、バンドゥンに拠点を据えていた音楽学者のトト・スアンダ、エンド・スアンダらはミミ・ラシナを「発見」する。ミミが踊りに復帰するよう説得するのみならず、長らく踊っていなかったレパートリーを復活することが難題だった。すでにミミ自身の記憶が断片化し、曖昧になっていたからだ。エンドたちは、知識豊富なガムラン奏者をかき集め、試行錯誤を繰り返しながら、ミミから少しずつ指示を引き出していった。こうして徐々に精度を高め、正確な形へと「復元」することに成功した。
エンドたちの支援によってミミ・ラシナはインドネシア各地の劇場などをまわり、全国的な名声を博す。冒頭で記したように、1999年からは海外公演も始まった。しかしエンドによれば、ミミほどの踊り手なら海外公演など、わけもないことだった。むしろ問題は地元で、個人宅の祝い事に呼ばれて踊りを営む、伝統的な形態を復活することだった。エンドはそうした伝統の復活に向けて骨を折ったが、国際的な存在になってしまったミミはもはや「儲からない」と言って拒絶した。長年に渡って赤貧の中で暮らした経験を映し出してあまりあるエピソードだ。
しかしそこでエンドはミミにこう言ったという。「あなたにオリジナルなものなんて何にもない。あなたに芸を仕込んだお祖父さんにもないよ。あなたの踊りは村の人たちが育んできたものなんだ。だったら村にお返しをするべきでしょ?」。ミミは説得された。やがて孫のエルリに芸を継承させた時、「民衆の求めに応じて踊る」ことを条件として課したのは既に記した通りだ。
2017年のインドラマユには、仮面舞踊の「伝統」をめぐる複雑な歴史のドラマが現在進行形で生きている。
ジョグジャカルタ
2月26日早朝、再び車でジャカルタに戻り、空港で岩手県の剣舞や鹿踊の若手の皆さんと合流。飛行機に乗り込んでジョグジャカルタへ向かった。三陸との交流も深い、マルティヌス・ミロトによるコーディネート。
〔1〕
最初は子供たちによるワヤン・クリ(影絵人形劇)の団体「スムナル」(Sumunar)。素晴らしく才能のあるダラン(人形遣い)が、声変わり前のハイトーン・ボイスで夢中になって演じていた。熟練の芸も良いが、芸術・芸能とはそもそも子供の遊びの延長上にある…といいたくなるほど、喜びに溢れた上演(稽古)だった。
中央奥がダランを務めるブランジャン(Ki Branjang)くん。壁にスクリーンを張って練習している
一人で声色を使い分けてセリフを語り、人形を動かし、右足で鳴らす楽器もある。大忙しだ
〔2〕
続いて訪れたのは「オマー・チャンクム」(Omah Cangkem)という、子供たちによる音楽グループ。主宰のパルディマン・ジョヨネゴロ(Pardiman Joyonegoro)氏が作曲した、ガムランやアカペラによるポピュラー曲をいくつか聞かせてもらった後、岩手の皆さんがガムランを教わりながら合奏した。ここでも子供たちがとにかく元気で、心から楽しんでいる様子が印象深い。伝統文化と現代の感覚を無理なく融合させているのが、いかにもインドネシア的だ。
ガムランの伴奏で、ゴスペルを思わせる合唱
剣舞の笛を聞いてもらう
〔3〕
最後はジョグジャカルタ王宮の舞踊の先生にお話を伺う。女性九人で踊る典雅な宮廷舞踊「ブドヨ」の稽古や、伝統を継承していくプロセスについて。宮廷で厳しく管理される古典舞踊の担い手と、岩手の郷土芸能の担い手の接触という、なかなかシュールな光景。
〔4〕
一夜明けて、ジョグジャカルタ2日目。国立芸大のプンドポ(半屋外のホール)で舞踊科の学生たちに岩手の鹿踊を見てもらう。踊り手の人数は少ないものの、テレビでも見たことのない珍しい日本の芸能は熱狂的に迎えられた。「鹿」の踊りというとインドネシアではあまりピンと来ないようだが、「シシ」=バロン(獅子)というとやはり話が通じやすい(もっとも日本の芸能では「鹿」と「獅子」の区別が曖昧だから、詳しい説明となると難しいのだが)。
〔5〕
ジョグジャカルタはさすがに古都だけあって、宮廷に由来する古典芸能が民間でも親しまれているが、岩手の郷土芸能のように、村々の民衆の暮らしに根差した芸能も豊富にある。中でも多彩に発達しているのが「ジャティラン」(「めちゃくちゃに動き回る馬」の意)で、竹で編んだ作り物の馬にまたがる出し物を軸として、集落ごとに工夫を凝らした様々な演目が組み合わせられる。
ミロトの紹介で、バントゥルの一集落を訪れ、ジャティランを見せて頂くことができた。2006年の震災(ジャワ島中部地震)の被害が激しかった所で、岩手の皆さんと住民との交流は大変有意義だった。
足踏み式の藁編み機
地震の時、山間にあるこの村にも津波が来るとの噂が流れたという。2004年のスマトラ沖地震の記憶があったためだ。津波こそ来なかったものの、家々はほとんど倒壊し、死者も出た。都市部から離れているため救援物資が届くのが最も遅れた地域であり、辛い経験を語る声を聞いた。ジャティランも中止になりかけていたが、芸術家や文化人たちが「やった方がいい」と支援をして、例年通り実施した。やってみると、村人たちの間にも元気がわき、結果的に「やって良かった」と思ったという。
ジャティラン
ジャワというとやはり古典芸能が有名で、ジャティランのような民俗芸能の国際的な知名度は低い。ちょうど日本の能や歌舞伎が国際的に知られているのに対し、鹿踊や剣舞がそうでないのと同じだろう。国単位の文化的アイデンティティは「古典」と強く結びつけられがちで、その背後にある民衆文化のレベルでは、我々は驚くほど互いを知らないままなのだと思う。
この村のジャティランも、ガムランと一緒に、ロック好きの若者がドラムを叩いていた。「純粋」な形の「保存」ではなく、良いと思うことはどんどん取り入れ、その結果として伝統芸能が生きているのはいかにも東南アジアらしい。また先ほどの国立芸大と村のジャティランの間にも交流があり、指導者を大学に招いて稽古をつけてもらったり、学生が考えたアイディアが村のジャティランに取り入れられるなど、双方向的な関係を築いていると聞いた。なまじ「文化」などと祀り上げられたり、観光資源になってしまうと、一定の型を踏襲することが求められ、こういうダイナミズムは失われやすい。
若者中心の楽隊。左手奥にドラムセット
〔6〕
続いて子供たちのワヤン・ウォン(古典舞踊劇)の団体「クスマ・インドリア」(Sanggar Wayang Bocah Kusuma Indria)を訪れ、練習を見学。ワヤン・ウォンにはジョグジャカルタの宮廷の様式と、スラカルタの宮廷の様式があるが、この団体は後者。ジョグジャカルタでは格調高い様式美に基づいた象徴的表現に徹するが、スラカルタには、マーシャル・アーツ(格闘技)のような激しくアクロバティックな立ち回りがあり、即興性、娯楽性が非常に高い。子供たちに人気があるのも頷ける。昨日のワヤン・クリで人形遣いをしていたブランジャンくんがここにもいて、今度は達者な踊りを見せていた。
〔7〕
最後は古典舞踊の学校プジョクスマン(Dalem Pujokusuman)。ジョグジャカルタ様式の稽古が行われていた。大雨が降る中、ゆっくりとした動きが繰り返されていて、神秘的なまでの静謐さに満ちた空間だった。宮廷文化が市民に深く浸透する、ジョグジャカルタという都市の象徴のような場所。
宮廷から大学、山間の集落まで、わずか二日間でジョグジャカルタの多彩な芸能シーンを立て続けに見て回った。とりわけ子供たちが伝統的な芸能を心から楽しんでいて、それを通じて大人と子供の関係もいきいきとしている。こうした切り口で眺めてみると、ジョグジャカルタは「芸能の街」といっても過言ではないかも知れない。