アジア芸能レポート2 マレーシア編

武藤大祐

2016年8月、三週間ほどマレーシアに滞在して、各地の民俗芸能を調査した。三陸と同様に漁業が盛んな沿岸地域を中心に伝統的な芸能を見て回りながら、三陸と比較していくことで、新たな発見が得られるだろうと考えたからだ。

前回のパプア調査の時と同じく、クアラルンプールのコンテンポラリーダンスや現代芸術のアーティストや関係者には知り合いが多いので、あらかじめ彼らからマレーシアの民俗芸能に精通したインフォーマントを紹介してもらっていた。概してアジア諸国では、コンテンポラリーダンスなどの現代的な芸術に携わる人々の多くが伝統芸能の実演家やキーパーソンともつながっていて、電話一本で橋渡ししてくれる。日本ではコンテンポラリーダンスと、神楽や能や歌舞伎の間にはほとんど行き来がないから、こうはいかないだろう。日本と他のアジア諸国の大きな違いの一つだと思う。

ともかくクアラルンプールに足場を定め、まずヌサンタラ上演芸術研究センター(Nusantara Peforming Arts Research Center http://www.nusparc.com/)でアニス・ノール(Anis Nor)先生にお会いする。アニス先生は民族舞踊学・民族音楽学の分野で国際的に知られる研究者で、編著書や講演も多数。大学を退職後、この研究センターを共同で立ち上げ、現在は国内外の研究者の支援を行っている。筆者も先生の著書や論文は読んでいたが、直接お話しするのは初めてだった。

三陸の津波の後、芸能や祭りがしばしば集落社会の軸として機能していたことがわかり、それゆえ災害からの復興において芸能の復興が大きな意味を持つと認識されるようになって来たこと、そして我々としては単に従来の形を取り戻すだけでなく他の地域の芸能とも刺激し合いながら新しい生命力を刺激していきたいと考えていること、等々、活動の趣旨を改めて説明する。しかし、アニス先生にとってこれはごく当たり前の話らしかった。日本では、2011年の後になってよく語られるようになったことだが、民族舞踊学・音楽学の世界ではそもそも自明の事柄だったのだ。そして三陸地方の生業や風土をふまえると、ボルネオ島北東部のサバ州に暮らすバジャウ族を訪ねるのが良いだろう、と薦めてくださった。バジャウ族は海の上で暮らす海洋民(海のジプシーともよばれる)であり、とてもユニークな踊りや音楽を持っている。サバ州立博物館の研究員で地域の芸能に精通しているジュデット・バプティスト(Judeth Baptist)さんに現地での手配を依頼して頂いた。

筆者とアニス先生

サバ州

さっそくサバ州の州都コタキナバルへ。飛行機で二時間半。マレーシアというと一般に「インド系、中華系、マレー系の人々が共存する多文化社会」と説明されるが、それは主としてマレー半島部の話であって、ボルネオ島(サラワク州、サバ州)ではそのいずれにも属さない少数民族が人口の大部分を占める。1963年に「マラヤ連邦」と統合してようやく「マレーシア」の一部になったという経緯もあり、サラワク州、サバ州ともに自治独立色が強い。クアラルンプールからコタキナバルへ入る時には空港でパスポートチェックも受ける。

ジュデットさんにお会いして、まずはサバ州立博物館でサバの芸能の概要をつかむ。

毎年開かれるサバ・フェスティヴァルではサバの歴史や伝説をテーマにした演目が上演されていて、各地の民俗芸能が組み込まれる。ジュデットさんは通常業務のかたわら、この演目の台本を書いたり、出演団体をオーガナイズしたりもしている。こうした場があるため、いわば「州立舞踊団」に近いものが組織されつつあり、ジュデットさんはサバ各地の芸能の名手をコタキナバルに招いて若者たちに習わせている。集落単位での芸能の違い、民族単位での芸能の違いもあるが、その一方でそれらを包括する「サバ」としてのアイデンティティが積極的に形成されているようだ(インドネシア国内で周縁化された「パプア」のアイデンティティ形成と通じるものがある)。

マレーシアの全般的な特徴として、宮廷や寺院などを母胎とする上演型の古典芸能の伝統がなく、芸能といえば参加型の民俗芸能が中心である。しかし舞台などでの公的な上演の機会が増えるにつれ、ステージ用の構成や振付も行われるようになっている。つまり芸能が、集落の祭りなどで行われる他に「よそ行き」の顔を持っているというわけだ。博物館で会ったバジャウ族の男性(60歳くらい)はクアラルンプールでコンテンポラリーダンスも学び、現在は振付家として活動していて、サバ・フェスティヴァルの演出・振付にも関わっているとのことだった。

サバ州立博物館

〔1〕カダザンドゥスン族のスマザウ他(@コタキナバル)

サバ州で最大多数を占めるカダザンドゥスン族の集落で踊りと音楽を見せてもらう。ジュデットさんが教えている若者たちとその地元の中高年、数十人が集会場に集まってくれていた。

先頭から二人目のおばあさん(この集落のシャマン)だけが昔ながらの衣裳

カダザンドゥスンの伝統舞踊スマザウ(sumazau)は簡単なリズムとステップで踊ることができ、列で踊るパターン、ペアになって即興的に踊るパターン、舞台向けにフォーメーションを組んで踊るパターンなど様々ある。ペアの踊りに誘われて混ざってみたが、基本的に体の力を抜いて左右にステップを踏むだけで、即興とはいえ特に複雑な踊りをする人もいない、とても素朴な娯楽だ。

1950年代にイギリス政府の主導により各地のカダザンドゥスン族が集まるフェスティバルが開かれるようになり、芸能の交流が進んだ。黒地に金の刺繍が入った、西洋の軍服を思わせる現在の衣裳を見てもわかるように、視覚的な装飾に加え、銅製で重かったゴングも軽量化されたとのこと。


伝統楽器を中心にした楽団もジュデットさんが指導していて、伝統音楽を現代的にアレンジしたものや、ポップソングを演奏する。電子ギターも竹で作られていた。


イギリス領時代にカダザンドゥスン族内で集落間の接触が促進され、また現在はサバ州全体でも交流が深まっているため、この集落の芸能団体は他地域のカダザンドゥスンの踊りを習得している。話を聞くと、もはや集落ごとに異なる踊りや音楽があるという考え方ではなく、どこの集落でも色々な踊りや音楽を楽しむようになっているとのこと。集落や地域ごとに独自の型やスタイルを守っているというイメージは当てはまらないようだ。

そればかりか、この集落ではジュデットさんが指導している若者たちが各地のバジャウ族、ムルッ族の踊りなども習得している。


専門家やプロというわけではないが、舞台向けの衣装や道具類もそれぞれ保有し、上演の機会に備えて練習を積んでいる。

東海岸の海バジャウ族の踊り

西海岸の海バジャウ族の踊り

ムルッ族の踊り

他に、フィリピンと同様のバンブーダンスもある。

この集落ではサバ州各地のカダザンドゥスン族のみならず他部族の芸能も次々に見せてくれたため、「民俗性」「土着性」といった観念がかなり揺さぶられた。なるほどどの芸能もサバの伝統だが、この集落で代々伝承されてきたわけではない。共同体とアイデンティティの単位が「集落」から「民族」そして「州」へと変化してきたのと並行して、サバの芸能も一定の意味を持った「儀礼」から、大衆的な「娯楽」、さらに公的な「舞台」へと文脈を変化させている、といえるのかも知れない。

〔2〕バジャウ族(@センポルナ)

ジャングルの中を車で十時間ほど走り、標高4000メートルのキナバル山を過ぎて東海岸のセンポルナへ移動。近年、ボルネオ島東海岸では、フィリピン南部で「スールー王国」の継承を謳ってボルネオ島南部の領有権を主張するイスラム原理主義のテロが頻発しているが、世界有数のダイビングスポットでもあるセンポルナの街は大勢の観光客が訪れていて賑やかだった。



州立博物館の小さな分館があり、そこにバジャウ族の複数の集落から集まってくれた皆さんに踊りを見せて頂く。バジャウ族は基本的に海洋民(海バジャウ)で、漁と交易で暮らしているが、島々の沿岸に海上住居をもつ部族や、陸に定住するようになった部族(陸バジャウ)もある。上陸の主な要因は海賊の増加だという。

初めて見る陸バジャウの踊りは衝撃的だった。低音のゴングの残響と、西洋の軍楽ドラムのキビキビとした細かいリズム、そして対照的におそろしく遅い踊り。これらが相まって強烈な陶酔感を生み、あっという間にトリップしてしまいそうになる。タイなどでも見られる長い金属の爪を付け、インド系のS字の体勢を取って、腰を落としたまま脚をほとんど上げずにゆっくり動く。この独特の姿勢と足運びは、船上での暮らしに関連しているのだろう。腕、脚、手、腰がそれぞれに螺旋曲線を描く。

グループによって踊りに違いはあったが、早鐘のような音楽と緩慢な踊りの極端なコントラストは共通している。時間の感覚が麻痺してしまう。こんな踊りがあるのかと驚いた。

どのグループも上演向けに振り付けられたフォーメーションで踊っている。このグループ(下の写真)が一番若く、舞台慣れしていないが、ジュデットさんは「ずいぶん巧くなったし、瑞々しくて、すごく良い。今日のベスト1だ」と激賞していた。

一番若いグループ

海バジャウ族からは踊り手が二人、それも明らかに習い始めたばかりの初心者しか来ていなかった。踊りそのものは大きく違わないと思われるが、とても茫漠とした踊りっぷりで、残念ながらどんな踊りなのかはっきりとはつかめなかった。

海バジャウの踊り

バジャウ族の踊りは、動きのイディオムをマスターするのに鍛錬が必要だが、本来はフォーメーションを見せるものではなく、祭りや結婚式などの祝い事の場で個人個人が即興で踊って楽しむもの。その点、沖縄のカチャーシーなどに似ている。そこで普段通りに、全員で即興で踊ってみてもらえないかリクエストしてみた。

それぞれが型を共有しつつも「個」が強烈に現れる、素晴らしく快楽的な踊りだった。きらびやかな衣装と螺旋状の動きが織り成す、まばゆい光景に言葉を失ってしまった。

男性陣にも踊ってもらった。ペアでの即興。飄々とした駆け引きのような要素があり、やはりカチャーシーに似ている。

海バジャウ族の踊りの中にタリライ(Tarirai)という独舞がある。ごく限られた人しか踊れないそうで、ハジャー・インタン(Hajah Intan)さんが達人として知られる。

ハジャー・インタンさんのタリライ

スペイン由来の木製カスタネットを鳴らしつつ軽くステップを踏み、肩を鋭く動かす。地味だが、手と足のそれぞれのリズムの取り方が複雑で(いくら見ても良くわからなかった)、明らかに難しい踊りだ。余計な力が抜けていて、軽妙なのに、古典舞踊の厳格な型のような重厚感がある。後で聞くと、母親から受け継いだとのことだった。

左端のドラムの方も素晴らしいテクニシャン。大きなゴングは軽い鉄製

バジャウ族は汽水量の小さい「ルパ(lepa)」と呼ばれる船を使っているが、それを旗で飾り立て、音楽や踊りを競い合う祭りをする。今回は陸上で踊ってもらったが、船の上ではどんな踊りなのだろう。いつか本当の祭りの時に訪れてみたい。

バジャウ族のルパ

中央がジュデットさん。芸能から鉱物まで大変な博識

〔3〕ザピン(@タワウ)

コタキナバルで見せて頂いた映像の中に、際立ってスマートでカッコ良いザピン(Zapin)のグループがいたのでジュデットさんに連絡を取って頂いたところ、見せて頂けることになった。タワウはセンポルナから車で二時間ほど西で、空港のある街。訪れたのはタンジョン・バトゥという集落。

集落の集会場

ザピンはイエメン南部の商都ハドラマウトを起源とするイスラム男性の民俗舞踊で、マレーシア、インドネシア一帯に広がっている。現在でもハドラマウトにはザフィン(Zafin)というほぼ同じ芸能がある。

コンパンというフレームドラムの一種を大勢で叩きながら歌う。リーダーとサブリーダーの荒々しいかけ合いを軸として波動が生み出される。ガンブス(アラブ系の撥弦楽器)、ボーカルの他に、電子楽器(キーボード、ギター)を取り入れ、若者にアピールするよう現代的なスタイルにしているとのこと。男臭く、それでいて少しメロウな、カッコいい音楽。


踊りそのものは非常にシンプルで、背中を丸めて視線を下に落とし、微妙なモタりのある4拍子のステップを踏みながら八の字に移動し続ける。しかし息の合った踊り手同士がすれ違って位置を入れ替わる瞬間に滑らかな手触り、エレガンスが香り立つ。とても渋い。


ザピンにも混ぜてもらったが、リズムと動線を覚えれば誰でもすぐに踊ることができる。全身で音楽を感じながら仲間たちとコミュニケートするのを楽しむ踊りだ。

サバでいくつかの民俗舞踊を見て最も印象的だったのは、上演型の古典舞踊とは違う、参加型の民俗舞踊ならではの独特のエネルギーと開放感。あまりかしこまらず、それでいて伝統を大事にしながら、人々が踊りや音楽を楽しんでいる様子は美しかった。特権階級の庇護の下で上演型の古典舞踊が発達した国々(例えばインドネシアやインド、韓国など)ではそれを土台にした「モダニズム」が比較的成立しやすく、そこでは「個」による表現が受け入れられるようになるが、それに対してサバでは時代に合わせて民俗舞踊が柔軟に変化して、「個」の力と「共同体」の力のバランスが保たれているようだ。

一般的にマレーシアの「コンテンポラリーダンス」の存在感が薄い理由も、この点にあるように思う。スルタンたちは芸能文化の古典的な洗練に強い関心を示さなかった。それゆえモダニズムの素地がなく、「個」の表現としての「コンテンポラリーダンス」の地盤も弱い。しかしこのように考えると、むしろ「コンテンポラリー(現代的)」という概念そのものの再定義が必要なのではないか、と思えて来る。民俗舞踊を土台にした、上演型ではなく参加型の、そして必ずしも「個」の表現ではない「コンテンポラリーダンス」を考えることはできないのだろうか。さらにいえば様々に「現代的」な工夫を凝らしているタワウのザピンなどは既に「コンテンポラリーダンス」ではないのだろうか。

クランタン州/トレンガヌ州

マレー系の伝統文化への支援を目的として活動しているNPOプサカ(Pusaka http://www.senipusaka.com/)は、ジャーナリストのエディン・クー(Eddin Khoo)が2002年にクアラルンプールで設立。文学・芸術を主なフィールドとしつつ、民俗文化や政治に対する強い問題意識を備えた、非常にユニークな組織だ。プサカの事務所は、アニス先生のヌサンタラ研究センターからも徒歩数分の距離にあり、さらにマレーシアを代表する現代芸術の拠点ともいうべきファイヴ・アーツ・センター(Five Arts Center http://www.fiveartscentre.org/)もすぐ近くにあって、彼らは密に交流している。この国の伝統文化と現代芸術の関係は、こんな所にもよく表れているだろう。

とりわけタイと国境を接するマレーシア北部クランタン州の芸能団体と、エディンは25年もの長い付き合いがある。三陸国際芸術祭のコンセプトによく合致するのではということで二つの団体を紹介してもらい、飛行機でコタバルへと向かった。エディンは所用で来れなくなってしまったが、プサカのメンバー三人が同行してくれた。

上の写真中央がプサカのマネジメントを担い、エディンのパートナーでもあるポーリーン・ファン。ドイツ文学を専攻し、カントのマレー語訳を出版している他、現代哲学にも精通しているが、他方ではミャンマーの伝統舞踊ザッポェの踊り手でもある。マレー文化についての論文も書いていて、大変パワフルな方だ。

〔1〕マ・ヨン(@クアラベス)

タイ国境に接するクランタン州はまさに「辺境」というムードが濃厚に漂っていて、アルファベット採用以前に使われていたジャウィ文字(アラビア文字を改造したもの)が公共の場でもいまだによく見られる。タイ語を話している人も多く見かけた。なお今回実際に芸能を見たのは隣のトレンガヌ州の集落だが、文化圏としてはクランタンに属するという。

クランタン州は地方政府のイスラム化が強まってきており、マレー土着の儀礼や民俗芸能が「迷信」として抑圧されている。プサカはそうした状況の中で伝統文化を支援しているが、とりわけシャマニズムと強く結びついたマ・ヨン(Mak Yong)は消滅の危機に直面しており、今では三つの集落で各一団体が行っているに過ぎないという。

訪れたクアラベスの集落でマ・ヨンを営む団体の中心は家族で、そこに同じ集落に住む人々がメンバーとして加わっている。若者が多いのが印象的だが、楽隊だけはプロで、地域一帯の様々な行事を請け負って出演しているとのことだった。

上演する場所はとくに定まっておらず、竹で四角形の空間を囲んで行う(この日は試演会のようなものなので簡易な材料で作られていた)。時間が来ると出演者が集まり始め、その場で食事をして、メイクをする。観客もじわじわ集まって来て、やがておもむろに音楽が鳴り始める。太鼓、ラバーブ(弦楽器)、スルナイ(チャルメラ)、歌。


マ・ヨンは演劇の要素、舞踊の要素、シャマニズム儀礼の要素が複雑に組み合わさった芸能だが、最初は低い姿勢でのユニゾンの踊りから始まった。観客は四方から囲んで見ている。

中央が主役の女性で、王子を演じる

宗教的儀礼でありつつ娯楽でもある形態は一種の「神楽」に似た趣き。話の内容は横恋慕や嫁姑の諍いなどで、アドリブの漫才のようなものが延々と続く部分もあり、筆者には意味がわからかったが子供たちは爆笑していた。

中央の男性は主役の女性の実の父親

王子の妻に嫉妬した母親が彼女を責め苛む(上の写真)。ハタキのようなもので繰り返しバシバシと叩き、その度に王子と妻が許しを請う。これが昂じるとやがて母親役の女性がトランスへ移行し、このトランスが集落の共同体としてのカタルシスになるとのことだが、この日はそこまで至らなかった。

一通りの内容が終わると、出演者も観客も一緒に舞台の中に入って延々と踊りが続いた。筆者も誘われて加わった。今まではコンテンポラリーダンスを主に見ていて、自分で踊ることにはあまり積極的でなかったのだが、今回のマレーシアで、スマザウ、ザピンと自分でも踊ってみている内に、いつしか抵抗が薄くなっていた。日常生活の延長上で様々に踊りを楽しむ人々にふれたことで、感覚が変わって来たように感じる。

マ・ヨンは劇・舞踊・音楽・儀礼など異質な要素が複合しているが、全体を指揮する人がいるわけでもなく、その場の雰囲気に応じてあくまでも有機的に進行する。即興の要素も強く、やはり家族や集落のような親密なまとまりでないとこれは難しいだろう。決まった科白のある劇の部分は半ば歌のような節回しで、所作にも緩やかな型があるが、女性たちがユニゾンで踊る部分などは明らかに振りを覚えていない人も多く、その大らかなノリに驚いた。聞いてみると「練習はほとんどしない」とのこと。相当に複雑な内容でありながら、これほど緩やかに営まれているというところに、かえって伝統の確かな地盤を感じる。なお三時間ほどの上演を本来は三日間続けて行うとのこと。

お茶を飲みながら、三陸の芸能の映像を見てもらい、芸術祭について説明すると、とても興味を示してくれた。

〔2〕ワヤン・クリ(@マダン)

翌日はマダンという街へ向かい、ある家族が中心になって営んでいるワヤン・クリ(影絵人形劇)の稽古を見学させて頂いた。

稽古場と上演会場を兼ねたスペースで、プサカの支援で維持されている

ワヤン・クリ(Wayang Kulit)といえばインドネシアが有名だが、マレーシアのワヤン・クリは民俗芸能としての性格が強く、ワヤンや装飾も簡素だ。この一家の長であるアブドゥル・ラフマン・ドラー(Abdul Rahman Dollah)氏は、名人だった父親が亡くなったのを機に息子たちにワヤンを教えるようになった。

中央でグンダン(太鼓)を演奏しているのがドラー氏、その右二人が息子達

左端の子供が一番簡単な楽器を叩いている。他の楽器に合わせるだけで良いので、誰もがここからスタートするとのこと。こうしていつの間にか芸の感覚が身に付いていくのだろう。芸能の自然な伝承の現場を目の当たりにしているようで、何ともいえず嬉しかった。仕上がった上演よりも、こうした稽古の様子の方に、民俗芸能の本質は濃厚に表れているかも知れない。


スルナイの荒々しい響きが入っているところが独特で、ジャワのワヤン・クリとはかなり印象が異なる。ここでも誘われて演奏に加えて頂き、グンダンを叩いてみた。

100年前から使われているワヤン

ドラー氏の家で古いワヤンなどを見せて頂いている時、納戸にしまい込まれた不思議な形の楽器に目が留まった。聞くとクルトゥ(Kertuk)という木製の打楽器で、本来は六組(十二人)で演奏するものだが、もう演奏できる人が揃わなくなっているとのこと。


下の写真のように向かい合って演奏する。
木と木のぶつかる音が木の共鳴箱で反響するユニークな打楽器。このまま受け継がれることなく消滅してしまう可能性が高いようだ。


三週間に渡って、マレーシアの様々な民俗芸能を体験させて頂いた。奇しくも、マレーシアの中心から外れた周縁部ばかり回ることになったが、どの芸能も、人々の生活空間の延長上にあって、気負いなく楽しんでいる様子が強く印象に残った。

他方、いくつかの集落で三陸の芸能の映像を見て頂いたが、「能」や「歌舞伎」のような古典芸能とは全く異質な芸能に驚かれた。「これは日本の芸能なのか」という声も聴かれた。我々がマレーシアの民俗芸能を知らないように、日本の民俗芸能も知られていない。つまり「グローバル化」のイメージで我々が了解してしまっている以上に実は世界は広く、人々はまだ出会っていないということなのだろう。近代国家とそれを象徴する古典芸能のイメージのもとに見る世界と、民衆とその民俗芸能の世界の間には、おそらく相当な隔たりがある。それぞれの土地に根差した芸能と芸能が出会い、遠く離れた土地の人々が交流し刺激し合うような、民俗芸能のネットワークを三陸国際芸術祭が作り出せたらと思う。