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【三陸芸能つなぐ声】 Episode 02|第二話「中野七頭舞の歴史」
- 2021
- 鑑賞
「七頭舞と子供達」
山本:小本小学校のクラブ活動が屋内になる秋頃に、千田先生が「なんとかこの踊りを子供達に踊らせたい、指導してもらえますか」と。ただ大人達は「こんな難しい激しい踊りが子供が踊れるわけがない」と思っていたんです。
でも、先生が何回も何回も私の所に来てお願いをされ、その執念にも負けましたし、あれだけの舞台の北上に紹介してもらった恩義もありますから。「じゃあ子供達が踊れる部分だけでもやってみようか」と。で、10月末、11月から学校に行って子供達に教えるようになっていったんですよ。
ところがね、ほんと子供の能力はすごいものなんですよ。一度覚えたものは忘れないし吸収力が強くて。最初簡単な部分からやったんですが、「じゃあもう一段階入れて次の踊りもやってみようか。」それもマスターして「じゃあ次も。」と。ついに全部の踊りを子供達が踊れるようになったんですよ。
ー どのくらいで子供達は全て踊られるようになったんですか?
山本:2ヶ月から3ヶ月ですよ。
私らもそれまで人に踊りを指導する経験が全くなかったんです。私らも先輩から踊りを習う時は、教わらず「見て覚えろ」なんですよ。見て何となく覚えてそしてお祭りの本番で何回も何回も場所を変えて踊って、そこでようやくなんとか踊れるようになる。ですから子供達への教え方が分かんないんですよね。
実際やってみると口拍子で「だがすこ、だがすこ、だがすこす」これだけでも全部口拍子を書いて模造紙に貼り付けてやるんですが、どうもやっぱりうまく伝わんなくて。そして子供達を前に置きながら体育館の隅にいて「これをどう教えたらいいか」と。あ、そうか、「1・2・3・4」こういう教え方がうまいかなと思って、「はい、1・2・3・4、1・2・3・4」って。自分らも子供達のおかげで勉強させられたんですよね。
12月・1月に入ってすごい子供達が成長を遂げました。学校側としては2月に学校の中だけのクラブ発表としてやる予定だったんです。ところがウチダ先生が「これは学校内だけでの発表会はもったいない」と。「どうせやるなら地域の人達に声かけて発表会をやろう」となって先生の筆で手書きのポスターを書いてあちこちに貼って、2月に発表会やったんです。
ところがそれまでの間には色々ドラマがあって。
小本部落・中野部落っていうのは地域感情的なものが、川を隔てて敵対意識みたいなものがあってですね。それで学校で中野七頭舞の発表会をやると言ったところ、校長に地域の人達から「なんで小本の小学校で中野の踊りをやるんだ。小本には小本の”さんさ”があるじゃないか」と、そういう苦情がいったらしいんです。でも、その時の校長はすごい太っ腹な方で、発表会が終わるまで苦情があった事を私にも聞かせず一言も言わず、全部校長先生がそれをしょい込んで、発表会が終わってから「実はこういうことがあったんだよ」と。
1回目の発表会は300人くらいの地域の人達が来てくれたんです。当初は当事者の祖父母や両親ぐらいかと思ってたんですが、結局多くの人達が見に来てくれて。見た人達はあまりの子供達の素晴らしさに、涙なみだでですね。その涙が地域感情を流してしまったんですよ。その次からは、ごく普通に発表会が出来るようになってずっと続いています。
53年の秋から学校でやるようになった時、私の方に消防団の佐々木団長から「消防団としてはこれはやっていけないから、保存会を結成してお前たちがやってもらえないか」となり、そこから今の保存会がスタート。私が最初の会長という形なんです。
学校で取り入れて演舞をやってることを、秋田の”わらび座”の方が知って、教えて欲しいとなった。こっちに来てわらび座も何年か踊りを習って。
わらび座では”わらび座新聞”って、毎月わらび座のニュースを会員の皆さんに流しているんですが、今もお付き合いしている”東京民舞研”の代表のフルヤさんという方から、わらび座の新聞を見て、我々の踊りを直接見たいと連絡があった。それで実際にこっちで子供達の踊りを見てもらった。今まではわらび座が芸能をもとに創作した民舞を習って子供達に教えて発表会をしていたそうなんですが「創作された民舞とは違う、地元の直接の”生の踊り”、これを民舞研としてもやっていきたい」となり、”七頭舞”を始め、大森の”御神楽”とかを現地に来て民舞研の人達も習うようになったんです。
民舞研は全国の組織なので講習会をやるようになると段々参加者が多くなって各地から習いに来るようになった。それが各地に広まって学校で実践されていった。
ある時、東京の練馬第二小学校の先生が子供達に太鼓を鳴らして練習してるのを、通りがかりの地域の人達がリズムにつられてちょっと学校を覗いてみて、それをその人がNHKに投稿したのかきっかけで東京の国立劇場で開催された第一回国民文化祭に参加することになったんです。第一回目ですから当時の皇太子様や皇族の方々がご覧になられた。これも滅多にないことなんだそうですが、演舞の発表後、主催者側に殿下が「素晴らしい踊りでしたよ」って一言、おっしゃったそうです。それが私らに即、伝えられて「お褒めの言葉なんていうのは間接的にはあっても、こういうことは滅多にないことですよ」と言われました。
学校で民舞を教え続けるには、難しいことが沢山あって、例えば、協力的な担任や校長が変わってしまって新しい先生に理解が得られなかったり、5・6年でクラブを決める時、七頭舞にばかり希望が集中したり、と問題はありました。でも、4年生達が、外の掃除やりながら皆窓辺に来て練習風景を見てるんですよ。「俺も来年は5年生だ。来年は俺も踊れる」っていう、そういうのが見て取れますから。やっぱりね、どんなにその学校内の事情があろうと、「これはやっぱり止められない」っていう、それが耐えられる力になってたんですね私は。当時は保存会とは言ってもほとんど、99%私が出入りしてましたから。
ー 地域の人が求めてますもんね。皆さん泣いたんですもんね。
ここまで段々動きが盛り上がっていきましたから、これが頂点に達してしまうと今度は下降するわけですよ。その時「どうやってこのモチベーションを続けてくれるか」と私もすごい悩んだんですよ。保存会は小学校で教えられるが、中学校になると今度は踊る場がない。なので中学生には愛護少年団という組織をつくった。岩沼の中学校では希望者に限り練習会を始めるようになったんです。小・中と通うわけですよ。その後、高校にも教えに行くようになって。私も仕事も持ってますし、今の様に週休2日制とかっていうそんな時代じゃないですし。とにかく忙しくかったですね。
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