板用肩怒剣舞

板用肩怒剣舞(いたようかたいかりけんばい)

岩手県大船渡市日頃市町板用・郷土芸能/板用肩怒剣舞保存会

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宝暦初年(1751)、酒田の本間家と並び称せられた猪川町稲子沢家中興の祖第四代理兵衛祀治の代に財力にものを云わせ金にあかして、 社殿や仏殿の造作を行った。
京都より仏具師や彫刻師を招き、仏像、仏具を製作し広大な舎殿を造営した。
当時稲子沢家には、多数の使用人達がおり、その和をはかるため、 先祖が江刺の出身なので江刺に古くから伝わると云われる念佛剣舞を導入し、その念佛剣舞に、仏具師や彫刻師「マキタ某」に剣舞に使う面や装束を作らせた。
京都の祭り風俗等をおりまぜて独特の剣舞とした。
そのため肩怒剣舞と称し大拍子にして雄壮剣理に合致した踊り方であります。
特長は肩怒(衣冗・束帯・直衣等当時の衣服を形どったもの)をまとい大拍子にして威厳のある踊りであります。
宝暦2年(1752)稲子沢家より分家を出したが、剣舞の一切を含め板用に寄付。
板用の剣舞として永年伝承保存するよう申し伝えて分家させた。
以後今日に至るまで、ある時期には30〜40年と休みがありながらも先輩達の努力により消滅することなく踊りの中味も往時と何等変わることなく今日までその芸能が踊り伝えられて来ている。

寿永4年(1185)平家が長門の壇ノ浦に一族郎党皆ことごとく海の藻屑と消えてより女子供に至るまでの過酷な残党狩等、平家一族の運命は悲惨なものであった。
此の無念やるかたなき執念が夜な夜な平家武者の姿となり源氏の大将頼朝の安眠を妨げ苦しめた。
その当時、高徳を以って知られた時宗の開祖一辺上人が諸国を念仏遊化の遍歴中ある夜、平実盛が夢枕に立ち、「平家一族修羅の苦界にて、浄仏なす事あたわず、貴僧の仏力に依り修羅の亡執より救われたし」と申し述べた。
この事を聞き源氏一党も大いに驚き、早速一辺上人を鎌倉に招請し、大法要を営み平家一族の浄仏を祈念した。
壇ノ浦に亡んだ平家の武将達とその一族が、御仏の偉大なる経文と高僧の法力に依り、次々と浄仏していく様を舞踊化したのが、この板用肩怒剣舞であり大拍子にして雄壮剣理に合致した踊り方である。
ササラに、主剣舞、前殿、後殿の三人が、あたかも一人の如く動作し、 その剣を持って踊る様は、遠く七百年昔、平家の武者達の亡霊が、修羅の忘執に親子、兄弟、親族達が相互に地獄の責め苦に戦う様を彷彿させる。

カタイカリ(衣冗・束帯・又直衣・狩衣の如き当時の衣服を形どったもの)を着て、大拍子にして威厳のある踊り方である。

大船渡市郷土芸能協会WEBサイトより