レポート バリ編

前川十之朗

趣旨

2015年12月12日より17日の6日間、大槌町復興の未来を背負い、大槌の郷土芸能を牽引する臼澤鹿子踊保存会の主なメンバーが、文化芸能の継承が盛んなバリ島や、大槌と同様に未曾有の震災から復興を遂げつつあるインドネシアのバンダアチェに赴き、地域の郷土芸能の視察と文化交流を目的にする。
大槌町は、東日本大震災の津波の犠牲者率は10.7%で宮城県女川町に次いで大きく、大槌町役場では町長を含め33人が死者・行方不明者となった。臼澤鹿子踊は民間としては珍しく被災後すぐに伝承館を避難所として開放し、地域にとっても重要な施設となった。また、『神の森』ドロノキ植樹プロジェクトは、鹿子踊りの衣裳に使用する“かんながら”を植樹して後世に伝えるという試みも地域外の団体と連携し行なっているユニークな団体である。
被災地を牽引する臼澤鹿子踊の方々にバリの芸能やアチェの復興の現状を知り、今後の活動の糧にして頂く。

バリ島芸能との交流の意味

バリ島の芸能を考えてみる。芸術としてのバリの芸能、観光(喰う為のみのもの)としての芸能、地域の“まつりごと”としての芸能と、複雑に絡み合いながら繁栄没落を繰り返し現在も進化し続けている。今回の渡航時期は、祭りの時期でもあり、まず、バリの普段の祭りを見る事が出来る。次に、海外でも勢力的に活動する芸術集団「Dewa Barata’s traditional dance studio 」との芸能交流も行い、夜は観光客用の劇場などを回る。今回、バリの芸能に精通しているガムラン奏者の櫻田素子氏が同行する事で、バリの芸能の変遷を同時に理解し、臼澤のメンバーにとっては大きな刺激となるはずだ。今後の臼澤鹿子踊、或は、三陸沿岸の芸能の独自性を見出し発展の一助になると考える。

日程

2015年12月12日(土)〜14日(月)
バトゥブラン村/シンガパドゥ村/プンゴセカン村

航空行程

12月12日(土) 日本→インドネシア・バリ島 
(GA881 成田11:00 → デンパサール17:35)
13日(日)〜14日(月) バトゥブラン村/シンガパドゥ村/プンゴセカン村

参加者

臼澤鹿子踊保存会

東梅英夫/笛(太鼓)、菊池務/笛、上野武夫/太鼓、臼澤孝一/踊(太鼓)、東谷一二三/踊(太鼓)、三浦貴志/踊(笛)、土橋綾菜/刀(笛)

プログラムディレクター

前川十之朗/プログラム・映像

バリコーディネート

櫻田素子/太鼓

アテンド

阿部一成/笛

成田を出発する臼澤鹿子踊ご一行

12月12日

12/11 JR東日本
東北新幹線の最終便にてに成田近くのホテルに移動
GA881 成田11:00→デンパサール17:35

デンパサール空港到着後、ワゴン車2台に乗って出発。
途中、アテンドの櫻田氏が民宿として利用しているウブド近くの民家に寄る。
この日は刃物へ祈りを捧げる日で、中庭に刃物がずらりと並べられ神に奉納されていた。
臼澤のみなさんも、いきなりバリの日常の宗教的儀式を見て、
驚きと同時に興味を持ったようだった。

この後は、ホテルにチェックインしウブドの繁華街にある食堂で遅めの食事をとり就寝。

東谷氏、ウブドの店員さんとそっくり

12月13日

8:15 ロビー集合、車で出発
8:45 バトゥブラン Batubulan(月の石)村 デンジャランDenjalan地区の、プマクサン・バロン・デンジャラン Pemaksan Barong Denjalan到着
9:30-10:30 バロン・ダンス鑑賞

*終了後、出演者のイ・マデ・マハルディカ(通称デド)氏より、バロン(獅子)について、および、観光客向けショーについて、簡単なお話をお願いした。

バトゥブラン村(Batubulan・月の石)
バロンダンスが観劇できる劇場「プマクサン・バロン・デンジャラン」(Pemaksan Barong Dengjalan)で観劇。
その後、バロン(獅子)について話を聞く。

劇場入り口で1,000円弱(Rp.80,000)の入場券を買い、劇場内部へ。

プマクサン・バロン・デンジャラン

客席は、おそらく300人以上収容可能なひな壇。
平日朝9時半のステージだからなのか、ウブドから離れている場所だからなのか、客席はパラパラと寂しく、我々の他に4-5人の外国人が開演を待っているだけ。

下手ステージにガムランの楽団がおもいおもいに出てくる。
衣装は揃っているが農作業の間の休憩のような楽隊の雰囲気。
とてもリラックスしている。
そして、おそらく、センターステージ奥には、演者が出入りするであろう寺院の門が見える。
やがて、クンダン(太鼓)の合図で演奏開始。
緊張感のない演者の顔からは想像できないほどの正確なリズムと美しいガムランの響き。
楽隊のクオリティはかなり高い。しかし、表情は、農作業をしているよう。
気合いが顔に出ないのはなぜか?
おそらく、演奏も営みの一部なんだと思う。

ステージ下手にガムランの楽隊

5分ほど演奏が続き、センターステージ奥から巨大なバロン登場。獅子舞同様4本足で、大人2人が中に入り操る。
演奏のリズムとダイナミクスがピタリと合っていて、それが観客の気持ちを高揚させていく。
獅子の顎を上下に打つ音、鈴をつけた前足のステップの音が、楽隊の休符やアクセントと同期し、まるでバロンも演奏しているようだった。

バロン登場


やがて、猿や王様やお妃様や魔女、最後に僧侶が出てきて物語はクライマックスへ。

それぞれのキャラクターが正義の味方か?悪者か?天使か?

ある程度は読み取れるが、ストーリーも謡の意味もよくはわからない。だが、ミニマルな音楽と踊り手のダイナミクスとが現実から観客を引き離していく。言い方が悪いかもしれないが、1時間ほどのショーでこの値段は、コストパフォーマンス良しと感じた。
演目終了後、センターステージを抜けて舞台裏へ。バロンを操っていたデド氏にバロンダンスのレクチャーをしていただく。

写真左、通称デドさん  イ・マデ・マハルディカ I Made Mahardika

バロンを踊っていたデド氏の話

父親がこの地域では有名な、スウェチャという仮面舞踊の踊り手であったので、
子どもの頃からずっと楽器も踊りもしてきた。
今回、披露したバロンダンスを踊り始めたのが20歳で、いま45歳。

先ほど出てきた魔女は、本物の衣装や仮面を儀礼に使う時、巨大な力が出るので、
この奥に安置してあり、普段は誰も見ることが出来ない。
きちんとした儀礼に則って出さないといけない、神聖な物である。
本来の儀礼は、バリカレンダーでクリンガンという行事の日のうち、
満月の日にあたるときにしか行われない。(約5年に一度)
みなさんが見た演目は、観光客向けのショーのためのもので、神聖な力はない。
また、観光客向けの演目は今日見ていただいた一演目だけ。
しかし、集落として演奏しているので、ツーリスト向けのときも、
祭りのときもメンバーに変わりはない。
ただ、想いや目的が違う。
祭り用には、いろいろな仮面舞踊(トペン)もあるし、踊りだけというのもある。
いくつもの演物があるので、ぜひ、祭の時に来て欲しい。

隣にシンガパドゥ村という芸能で有名な集落がある。
そこに天才的な踊り手が数人いた。
我々の集落も(現在90歳くらいの世代が)1960年ごろに彼らから習った。
その頃は、となり集落のシンガパドゥ村が依頼を受けて、
ツーリスト向けに演じて見せていたが、ある時期に止めてしまったので、
1963年から我々の集落バトゥブラン村で行うようになった。

バロンは、仮面(獅子頭)を頭で支えて踊っている。
(前脚担当の人の)お腹のあたりに顔がおりてくる時があるが、
それは中で支える頭の位置を変えている。
その時には周りの様子が見えないけれど、
tantangan(タンタンガン)という力と感覚で踊る。
その感覚を持っていなくては、バロンは踊れない。
*tantangan(タンタンガン)=直訳で挑戦。見えなくても見えてくるという意味だそう。

アテンドの櫻田氏の話

ここは観光客用のショーのための劇場である。
元々は村にある死者のためのお寺で、決まった祭礼のときに演じるものであって、ここにはとても特別なバロン(獅子)が奉納されている。
そこでの祭礼を海外から来た人が見て、「ぜひ、ショーとして観光客にみせたほうが良い」と勧められ、劇場として演舞を披露するようになった。

東梅氏(臼澤鹿子踊保存会)の感想

当然ではあるが、かなりショーアップ(見世物化)しているという印象を持った。
ショーを繰り返すことで、元の形(祭や儀式での形)への影響はどのくらいあるのか?
バロンはまさに鹿子踊と同じである。
口が動くので、太神楽にある獅子舞と同じといった方がいいかもしれない。
猿が登場してきたが、あれも大槌にある芸能(太神楽など)に出てくる
道化通り(ひょっとこ面などをつけている)と同じ役割であろうと思うと、構成などもあまり変わらない。
楽器を演奏する人たちは、その立ち居振る舞いの雰囲気からして、それぞれ一家言ありそうな方々ばかりであったが、デド氏はそれをまとめて統率しているので、若手ながらかなり信頼されているのだろう。
彼の時代は大丈夫だろうなという印象を受けた。
次の世代へ、どのように継承をしていくのか楽しみでもある。

デド氏のレクチャーを30分ほど受け、だいぶ気温が上がってきた。
一行は吹き出す汗を押さえながら笑顔でこの劇場を後にした。

11:00 車で移動後昼食
12:00 車で移動
12:30-14:30 イ・クトゥット・コディ I Ketut Kodi 氏宅で。
バリの芸能「トペン Topeng」について教えていただく。

シンガパドゥ村(Singapadu・獅子の使い)
イ・クトゥット・コディ氏
(I ketut kodi・国立芸術大学講師・仮面舞踏トペンの第一人者)

寺院のようなお宅、他の家もだいたい造りは同じ

先ほど、デド氏も言っていた芸能の盛んな集落シンガパドゥ村に着く。
そして、バリ島のなかでも、マスクダンスの一人者のコディ氏のお宅にお邪魔する。
バリの家はだいたいそうなのだが、敷地に入ってからは建物の隙間の細い路地を歩かなければならない。
それが迷路のようになっていて方向感覚がおかしくなる。
敷地のあちこちには、お花やお線香などが供えてあり、ヒンドゥーの寺院の中に佇むような穏やかな時間が流れている。
誰もが、バリに来るとそんな雰囲気に癒されるのだろう。
コディ氏は、敷地の中央にある仮面の工房で待っていた。
いろんな仮面が棚に飾ってあり、コディ氏自身が作家でもあるということだった。

コディ氏のマスクを作る工房

敷地をさらに進むと、20畳くらいの稽古場のような一角が現れ、皆で靴を脱ぎあがる。
インドネシアの稽古場は、大抵こういった白いタイルの床面だ。
この硬さで長時間稽古して、怪我しないのだろうか?

すると、コディ氏から、「最初に臼澤鹿子踊を披露してくれないか」と、提案があり、いきなり臼澤の演舞を披露することとなった。
鹿頭だけを身につけ、刀振り・笛・太鼓とともにインドネシアでの初踊り遂行。
数分ほどの踊りがすみ、東梅氏から簡単な鹿子踊の説明をしていただく。


お庭をバックにリラックスしたムードでの臼澤の演舞

その後、コディ氏から下記の点、バリの仮面舞踊のレクチャーをしていただく。

  • バリ島の儀礼・祭礼には欠かせない仮面舞踊「トペン Topeng」について実演を交えたお話をしていただく。
  • バリ島の男性舞踊の基本の所作、身体感覚
  • キャラクターによる演じ分け →女型の踊り方も見せてくれた。
  • 仮面の意味、在り方、制作方法など
  • 伝承方法について、教え方、世代間にどう違いがあるか、など
  • 装束の変遷

丁寧に仮面のキャラクターの意味や演目の意味などを話していただき、実際に足さばき手さばきを参加者のみんなでやってみる。
簡単ではないのはわかっていたが、みんな苦戦していた。

イ・クトゥット・コディ氏の話

バリの踊りを習うには、一つ一つの型を習い、その後、歩く型を訓練するのだが、習得するには時間がかかる。
自分の両親が踊っていれば、幼い頃からそれを見ているので、子どもでも踊ることができる。
それが出来るようになって一番大変なのが、呼吸を整えて踊ること。
いわゆるヨガの呼吸法で、ヒンドゥー教の要素から来ている。つまり、動くときは息を止め、動きをやめたときに呼吸をする。
常に動きに沿って呼吸を意識することが大事であり、それが表現にも関わってくる。
息を止めるときの力の入れ方、息を吸うときの力の抜き方などは、踊りながら自分で習得していく。特別に方法が決まっているわけではないため、一人一人やりかたは異なる。長年、訓練しながら、達人から学び、さらに自分で感覚をつかんでいく。

また、インドネシアのシラットという武術がバリでは踊りの演目としてある。
その呼吸法があるということは、武術も根底には呼吸法があるといえる。
また、踊りの型、ヒンドゥーの神様の手の型、いわゆる印を結ぶことには、魔術に繋がることなど、やってはいけない印の型がある。
そういうところは端折って、踊る。
踊りの背景となる物語は、本を読んだり、日常の中で年長の方に聞いたり質問したりすることで覚える。
基本的には自分で勉強して、分からないことがあれば聞くというスタンスで習得していく。

バリ舞踊と音楽には、観光としてのもの、祭りとしてのもの、アートとしてのもの、さらに、コミュニティのためのものがあると言われているが、
もともと、自分たちの地域・社会のための祭りがあって、そこにヨーロッパなどからの観光客に見せるようになっただけ。
お客さまを大切にして喜ばせるということと、神様を大切にして喜ばせるということが同じだと我々は考えて披露している。
アートとしての舞踊と音楽自体は、生活や宗教のなかに内包されている。
一言で言えば、区別はしていない。
形として収入になったりはするが、すべて神様のためであり、お金のためには演じない。

全体で二時間ほどの丁寧なレクチャーを受け、最後に、仮面を彫る姿を見せていただいた。そうして、コディ氏の自宅を後にする。

コディ氏は、両手両足を使って器用に面を彫って見せてくれた

14:30 車で宿へ(20分)
15:00 各自部屋で休憩
19:00 プンゴセカン Pengosekan村のガムラン・グループ「スダマニ Cudamani」のスタジオ(リーダーのデワ・ブラタDewa Berata氏宅)訪問、稽古見学、デモンストレーション交流。
◎後半、臼澤鹿子踊りのデモンストレーション(着替え10分、デモ15分程)
※篠笛の阿部氏、1日遅れてバリ入り。臼澤のデモンストレーション前にかろうじて合流。

プンゴセカン村(Pengosekan)
ガムラングループ「スダマニ(Cudamani)」のスタジオ見学・デモンストレーション演舞
デワ・ブラタ(I Dewa Putu Berata / Cudamani代表)

スダマニは、バリ島を代表するガムラン楽団として世界的に有名。この地域の伝承者はもちろん、バリ各地から優秀なダンサーや、ガムラン演奏者が集まり、古典からコンテンポラリーなオリジナル作品まで縦横無尽にこなす。大人、男の子2グループ、女の子、と4チームが島内で活発に奉納・イベント出演し、大人のグループは海外公演多数。

ホテルからは、車で5分くらいの場所に「スダマニ Cudamani」のスタジオがある。
一行は、衣装と楽器を担ぎ、いざ。

プンゴセカン村は、ウブドに近い場所にあり、恐ろしく目の前の道が車で混みあっていた。
狭い門をくぐると、間口6間、奥行き3間ほどの板張りの広い稽古場がある。
スダマニスタジオのリーダーのデワ氏が、我々を迎え入れてくれた。
まずは、デワ氏のあいさつ。
「スダマニの本拠地にようこそ、いらっしゃいました。
日本の郷土芸能のみなさんに来ていただいて本当に嬉しい。
今回は、我々の伝承方法をぜひ見ていってください。」
そうして、奥様のえみこ氏(日系だが日本語喋れず)とお父さんを紹介してくれた。
デワ氏は、このお父さんから習い、デワ氏が、青年に教え、青年は子どもたちに教える。
まず、子どもたちは青年たちから音楽や楽器のテクニックを習うことから始める。
それができるようになって初めてデワ氏から直接教わったり、もう一世代上の人から習ったりできる。
さらに熟練度をあげれば、外部の高名な人に心のあり方や芸能に対しての姿勢を習うことができる。

演舞が始まった。これにはびっくりした。最初の演目は少女たちがガムランを演奏し、小学校の低学年の男の子達が踊りだしたからだ。
少女は普通ダンスで男の子がガムランだろうと、勝手に高をくくっていた。
どうやら、踊りの前にまず音楽や楽器をおぼえるということが基本になるらしい。
それにしても、ガムランの演奏は簡単にできるとは思えない。 

また、男の子たちのダンスを20歳前後の青年がきめ細かく、手取り足取り指導していたのも印象的だった。

アテンドの櫻田氏の話

近年になって、女性のガムラングループが出始め、いろいろな世代のグループがある。
今まであるのが、わりと自治体の婦人会の趣味の会のようなグループが多かった。
しかしこのスダマニでは、若い女の子たちがグループを始めた。
彼女たちはきちんと教えて、きちんと練習して、芸術性を高く仕上げている。
1年に1回「バリ芸術祭」で発表して、もの凄く注目された。
スダマニが初めてそういうグループを作った。
スダマニが素晴らしかったので、フォロワーが出てきているけれど、スダマニのグループと同じようなクオリティを出すのはなかなか難しい。

次に、デワ・ブラタ氏が入ったメインメンバーの演奏による17〜22歳の青年たちの群舞、13~15歳位の少女たちの群舞、16〜20歳位の女性たちの群舞、そして、中核をなす20歳代の女性や男性のソロを見せてくれた。

演奏はすばらしく、新旧の楽曲と各年齢層の踊りのクオリティーの高さとに圧倒され続けた。


また、ガムラン奏者による、ケチャも見せてくれ3時間を超える盛りだくさんの内容となった。

スダマニの伝承の考え方をデワ・プラタ氏の次の話で詳細に教えてくれている。

デワ・ブラタ氏の話(I Dewa Putu Berata / Cudamani代表)

すごく大事にしている活動は、古い演目を復興させること。
既に4~5演目を復活させている。
スダマニというグループは世界でもバリのガムラングループとして有名になった。
そのスダマニが残っている素晴らしいものを習って演奏することによって、それを元々もっていた地域の人たちがそれを聞いて自分たちもまたやろうという
気持ちにさせること。それが活動の中で大事なことである。
例えばもう50年間演奏されていない演目を習って演じて、それを実際に地元との人たちに教えて、彼らがさらに先生を呼んで習って、という流れを作っている。
もう一つ次に大事に思っていることは、自分たちの持っている。
トラディショナルな物を次の世代に繋ぐということ。
グループ自体は1997年に設立された。もちろん、スポンサーはその時はなかった。
2002年にジャカルタに事務所がある財団から、2年間子どもたちへの指導という名目で助成を得た。
最初に若い大人たちが、子どもたちに曲のことと楽器を演奏するテクニックを教えて練習する。
元々ある古典のものは飽きてしまってできないので、スダマニだけで作ったものがある。
それをやることで基本を学べるようになっていて、それが出来るようになってはじめて、お父さん世代や外から高名な作曲家・演奏者・踊り手などに、本質的な部分とか心の部分とかプラスの部分を学んでいくというふうに順番を追って学んでいくシステムを考えている。
スダマニでは現在、男の子グループが2つと女の子グループと、中高生ぐらいの若者たちのグループ(男女混合チーム)と大人グループと5つのチームがある。
子どもたちは、5〜6歳ぐらいから始めている。
もう少し大きくなると学校等いろいろ忙しくなるので、そうなる前にある程度出来るようにしておき、とにかく世代を繋いでいくという所に心を砕いている。
子どもたちは、踊りも音楽も両方とも出来るように練習している。
普通、子どもたちが年長者たちの演舞を見ることがなかなかないけれど、スダマニではよく鑑賞させている。
子どもたちのうち、85%くらいは、ブンゴセカンの子どもたち。
残りは少し遠い北や南の街道沿いから来ている。全部でだいたい125人くらい。
子どもたちに教えるのには対価はない。
観光としての催しやホテルなどでは出演料をちゃんともらうが、子どもたちのためや、お寺の奉納では要求もしない。
基本的にはないと考えている。
私が教え始めたときに、いろいろな年長者の教え等を勉強した。
強く言ったりすると、子どもたちが萎縮してしまうので、楽しくできるように、常に自分の心を整えている。
彼の親世代は厳しく指導してするタイプだったし、そういう指導スタイルはいまだに学校などで行われてはいる。
しかし、スダマニではそうしない。
やはり好きでいてほしい。
実際に来ている子どもたちは楽しくやっている。
それが大事だと思っている。
また、ガムランの中にも、いろいろな楽器がある。
それぞれの楽器に自分がキャラクターとしてあっているという感覚を「出会う」と呼んでいる。
あれやりたいこれやりたいというのを最初分からないので5年ぐらいやると、自分がどれとどういうキャラクターかというのが分かる。
自分と楽器もそうだし、音楽と踊りもそうで、踊り手も自分がどんな踊りがあっているかというのも、同じ。
「出会う」と恋をしてしまう。
そういうものだろう。
たとえ、自分がすごくやりたいというものがあったとしても、自分が入って、他の上手な人と一緒にやったとしても、全体の音楽がやはり良くないということを知るだろう。
心の底から感じていれば、絶対感じるだろう。基本的には本人が気づくことだと彼は信じている。

そして、まってました!臼澤鹿子踊の演舞を披露した。不思議なほど、スダマニのスタジオに色彩がマッチしていて、太平洋は繋がっているんだなって実感。ただ、さすがに実力のあるスダマニの実演後だけあって、少々臼澤のみなさん、緊張していたが、終わった時の汗に、スダマニのメンバーも大きな拍手を送っていた。

最後に、代表東梅氏より、大槌町、臼沢鹿踊の説明が行われ、スダマニとの交流の幕がおりた。
じつは、この後も子どもたちを家に帰し、90分ほど、芸能について熱く語り合った。

東梅氏(臼澤鹿子踊保存会)の感想

伝統を守るため、当面今を盛り上げるため、という両面への難しさを抱えているというのは同じというのが第一印象。
そのために今何をするという明確な構想を持っていると感じた。
臼澤でもそうだが、舞台ステージでは、20分くらいの指定された時間に合わせて、見栄えのいいとことろ取りで見せるようにしている。
それとは別に何年かに一度のイベントではしっかり伝統を守って演じる機会を作るという話があったが、それらの両立は可能なのかと疑問に思う。
能などの日本の伝統芸能は何十年という修練で指先の動き・角度を極めていく。
しかし郷土芸能は、1週間でも踊れるようになる。
総じてこういう踊りだという伝え方である。
さらに、その時代時代で自然に変わるものであり、その時の師匠になる人たちの個性によっても、大きく変わる。
伝統の踊りと今見せるための踊りを区別できるのだろうか。
また、指導層の話が興味深かった。
議論しあうことはいいことであるし、議論のテーマとしていろいろ得るものがあった。

今後臼澤のメンバーで伝統の伝え方を工夫していきたい。
段階的に指導することのメリットは、教える側が教えるために3倍5倍考えなければならない。
それによって、教える側がまずステップアップすること。
デメリットとしては、5人の指導者がいれば、5人の個性で後進を指導してしまう。
そこは、郷土芸能は、表現の意味を変えずに踊る、個性で表現の仕方が変わるのはやむなしという方向に必然的に進むことになる。
団体としても、個人としても、一人の強烈なリーダーが引っ張るのではなく、メンバーがお互いに補完しながら進めていくほうがいいと考える。

現在臼澤はメンバーが120〜130人くらいいるけれど、踊り手だけでなく、囃子方や雑事を担当してくれる人もいれているので、実際に踊るのは1/3にも満たない。
あのように層別にやれる組織にはなっていないし、そもそも層が厚くない。
ただ、良し悪しをきっちりお互いに議論して研究しながら、良いやり方を取り入れていくということだろうと思う。

23:00 ホテルへ戻る。これで、バリでの交流は終了。
明日は、ジャカルタ経由でスマトラのバンダアチェへ飛ぶ。

アチェ編につづく……