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【三陸芸能つなぐ声】Episode 03|第三話「えんぶり組と八戸史 」

  • 2021

「えんぶりのこれからを考える」

ー えんぶりは、売市*(八戸市)が発祥と聞きました。

【※注】売市(うるいち)えんぶり組:全てのえんぶり組をまとめる「取締えんぶり組」の一つ。売市はえんぶりの発祥の地とされ長者山への参拝が許されているのもこの組だけ。お囃子が頭巾をかぶる装束も特徴的。

売市えんぶり組。お囃子が頭巾を被っているのが特徴的。

売市えんぶり組はそのような謂われを持っていて、売市の人達が顔を隠すのはどういう意味だろうっていうのも考えているんです。明治になって”官族”っていう、今でいう公務員っていうかな、それで侍的な人が、多分えんぶり組の中に入ったんだと思う。だから顔を隠すのかなって。これは根拠なしです。私の推測。

今日話した米作りと百姓としての過ごし方等の面で考えた場合、元々1年の始めに旦那様も含めて今年いい年にと思うのが小正月であり、いい日にして盛り上げていく形から、様々な芸能が生れる。集落毎に旦那様の所へ行き、自分達の産土様にも行き、という形で行ってたのを、明治に入って整理されてしまった。もしかしたらその整理の中で売市が特権階級を取ったのかもしれません。

ー 八戸は商売人の町というイメージがあります。えんぶりが農業の田植え踊りから発生していながらも、門付が上手い、そういう演出が上手いじゃないですか。だから商売人の芸能にいつ時代か移行したのではと勝手ながら考えているのですが。

古舘:それは多分ぐっと新しいんだと思う。基本は百姓ですよ。商売人じゃないっていうんじゃなくて、商売もやってたけれども多分百姓もそのあたりにはいたはずなんですよ。

ー 八戸がこうやって街として、都会として成り立ったのは本当に最近ってことなんですよね。

古舘:そうです。江戸時代の始めにこの街ができた。でも純粋に商業というのは表通りの辺りの人達ぐらいで、あとは百姓になるんじゃないかな。表通りができて、こっち側は裏通りができてっていう形で街が出来てくる。それは江戸時代の半ばくらいまでにほぼ出来上がってたと思うんですけども。周辺の農村部からも色んな物資が集まってくる場所なので商売人も多かったとは思うんです。ただやはり人口比で考えたら圧倒的に百姓が多い。百姓が多いということは、年が変わったら今年いい年だといいなっていう思いはみんな一緒だったと思います。だから商業者の知恵で明治にもう少しイベントとしてブラッシュアップしてったっていうこともあるだろうし。

ー 刀を差してるっていうのも、農民と武士が入り混じってるっていうようなことも考えられますか?

古舘:それも1つあるし、もう1つはですね、えんぶり組を長者山に一か所に集めたでしょ。そうすると喧嘩が起こるんですよ。一番集まった時で90何組ぐらい集まってる。だから喧嘩も起こるし、そうなるとそれを抑えなきゃならない。だから刀を持つという話はその辺りに絡むことだと。取り締まりが出来るとかね。
明治の末でも90組ぐらいは集まってたそうで。その時代だと朝早くつっかけてっていうことで順番どりとかもあるだろうし、それぞれ寒いから酒飲んで待ってるだろうし、そこで喧嘩が起きてなんてのはしょっちゅうあっただろうし。それを抑えるために少しずつ色んな仕組みを作ってって、その中で”取締えんぶり”というのが出てきてると思う。

ー ”えんぶり”っていう言葉が文献上最初に出てくるのは江戸時代中期頃ってことなんですか?

古舘:『えんぶり摺りの大意』という古文書は江戸時代終盤かなと思います。だから藩の記録の中では”お田植え”なんですよ”えんぶり”というのは。
実はえんぶり組の他に”苗取り組”というのがある。”苗取り組”は烏帽子を被らず舞手だけで歩いて門付してた。さっき90何組あるって言いましたが、えんぶりも、烏帽子とか持たない苗取り組っていうのも、全部小正月行事に合わせて動くわけですよ。

ー 苗取り組は地味な印象ですね。

古舘:地味ですね。
各々の集落で小正月に何かしようっていうのがあって、その中でえんぶりか、えんぶりまでいかなくてもいいや、苗取りにしておこうか程度で、なんらかの芸能的なことを小正月にやるための集まりなんだと思う。それが強く残ったのがえんぶりで、苗取り組はその前になくなっちゃって、もしくはえんぶりに吸収されてって。で、元々は各々の集落でやってたけども段々各々の集落で出来なくなって、残ってたところが今のところに繋がってくるっていう形。市町村であれば合併だけど、芸能の時はどっかに吸収されていくのかも知れない。

ー 苗取り組が無くなり、一度中止にもなった経緯があるえんぶり組は何故復活し残ったのでしょう。

古舘:最盛期を考えたらよくぞ残ってくれたなという感じですよね。基本には、地域に残されたものを伝えることに関して、やってる人たちが一番嫌がるのが、あいつの代でなくなったって言われたくないって、それはよく聞きますよね。自分らが受けた恩をあとが続かなくてやめたって言われたくないんだって。
今の世はみんな農村から離れてしまった。百姓から、農作業から外れてしまってる。暦も変わって、小正月という意味が伝わらなくなってきた。そういう中でも形としての部分を伝えていかなくちゃならない。それは形として割り切ってしまうしかないと思うけど、皆が農作業から外れてしまった社会の中で、農業から始まった芸能をどう伝えていくのかという厳しさがある。

駒踊りの人達は、昔は身の回りに沢山馬が居たから、足の動きを馬みたいにしろって言われて、自分たちは日常的に馬を見てたから分かるけど、今の子ども達に馬みたいな足の動きしろって言っても通じねんだ、と聞いたことあります。そういうのが一番辛いだろうし、現代での意味を、単に伝えられたからっていう意味だけじゃなくて、やってて良かったと感じさせる仕組みのようなものを作らないと伝えてくれない。

ー 古舘さんが18年間、八戸市で文化財関係を担当され、えんぶりも文化財に指定されるところを正に関わっておられたと思いますが、実際その時、危機感だったり期待だったり、どのような気持ちを持たれましたか?

古舘:国の文化財になった頃は一番厳しい時代だったかもしれません。昭和54年頃だったと思うんだけど、組そのものがどんどん瘦せて減っていく、という時代でしたね。今は子ども達が喜んで来そうな仕組みを各々の組で工夫してくれてるからいいけども。指定文化財になった頃っていうのは文化財ともてはやしながらも、実際はあんまりこっち向いてくれない的な、そういう時代でしたよ。高度経済成長の中でまだ、金儲けも含めてそっち側の方が強くって、文化財みたいなのは俺関心ねえよみたいなのを平気で言ってられる、そういう時代だったので。

ー 会社員っていう方々が一番多くなっていったことも関係するでしょうか。

古舘:そう。だから人が集まれないんですよ。

ー 郷土芸能は、白物家電の普及や万博辺りの時代に60%ぐらい無くなってしまったと聞きます。一方で万博では虎舞や鹿踊りなどの東北の芸能を招致する、ここに矛盾を感じました。

古舘:結局日常を支えてもらえない。スポットライトがあたる部分は力入れてくるけども日常の部分の支援はないのでね。これが一番厳しいだろうと。今は逆に、例えばえんぶりの行事に合わせて市役所のところで篝火祭りしたりとか、お庭えんぶりしたりとかっていう場を作っていった。公演をする場が増えた。この効果があるなと思う。いくら練習しても目標がないと力が入んないんだわ。今年はあそこと、あそこと、あそこに出るからっていう形があればそれは頑張ろうよってなるわけで。単純な農作業への祈りだけではすまない。今の世の中の必需品としてのものをきちっと作ってあげないと、やる側はやっぱり大変ですよ。

ー 昨日、十一日町えんぶり組の稽古に参加させていただき、若い方も頑張ってるし活気あると感じましたが、他のえんぶり組はどうなんでしょう?あまり盛んではない組もあるというお話もお聞きしました。

古舘:最近頑張ってる組が増えてきてる気がしてますよ。豊年祭りを脱却したかな。

ー といいますと?

古舘:明治にイベント化した時に豊年祭りって言い方をしたの。その時の「今年豊作でありますように」という農業とかそういう風なのからは離れたかなっていう気はします。

ー 今でも豊年祭りののぼりを立てていますよね。

古舘:でも、現在、えんぶりをやってる人で農業やってる人いないと思う。ただ、そういう出発点っていうか、元々のところは一応頭の片隅には置いてもらいたいなと思っています。


取材・記録:大部仁、佐藤公哉、今川和佳子、みんなのしるし合同会社
編集:青木美由紀



文化庁委託事業「令和3年度戦略的芸術文化創造推進事業」

主催:文化庁、三陸国際芸術推進委員会

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