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【三陸芸能つなぐ声】  Episode 02|第二話「中野七頭舞の歴史」

  • 2021
  • 鑑賞

三陸国際芸術祭2021 芸能交流プロジェクト「ふえlab」の成果発表「髪長姫〜アジアが紡ぐものがたり〜」では、3つの日本の郷土芸能団体と海外の2団体に出演していただきました。
その中の一つに岩手県岩泉町の「中野七頭舞(なかのななづまい)」があります。
七頭舞とは、岩手県岩泉町が発祥の地であり、神楽から派生したといわれる躍動感ある華やかな芸能で、現在では全国各地で七頭舞を踊る会があるほど人気の郷土芸能です。昔、七頭舞は女人禁制で、女性や子供は御法度だったとのこと。今では、子供達が懸命に踊る様子が感動を誘います。
今回、中野七頭舞の先々代会長・山本恒喜氏に、中野七頭舞の復活から全国区へ至るまでの経緯と、七人の舞手の役柄や道具の意味などを教えていただきました。


語りつなぎ人:山本恒喜 | ヤマモトツネキ / 中野七頭舞先々代会長

17歳で初めて七頭舞を踊り、昭和53年に保存会の会長に就任。昭和53年に演舞した以降は、亡き父に代わり太鼓を担当。小・中・高校で子供達に精力的に七頭舞を伝承してきた。自身の持論に基づき50歳で惜しまれつつも先代会長・阿部一雄氏にその座を譲る。


「七頭舞復活の軌跡を学ぶ」

ー まず最初に、岩泉町という岩手でも集落単位の芸能が、今、全国的に団体があり沢山の人が踊っている、そのいきさつを教えていただけますか?

山本:全て話すのに二日かかりますね。(笑い)

山本恒喜氏インタビューの様子。「髪長姫〜アジアが紡ぐふえものがたり〜」では、5つの芸能団体の笛の旋律やお囃子の拍子を研究し、一つの楽曲を作成しました。現代音楽家の佐藤公哉、笛・尺八奏者の大部仁が音楽クリエイションに参加しています。写真の一番右が、山本恒喜氏、真ん中が大部仁、一番左が佐藤公哉。

ー 全国で何団体くらいありますか?

山本:いやー、数え切れないです。

ー 西日本にもあるのでしょうか?

山本:西の方は広島ですね、ものすごく盛んです。幼稚園やこども園、保育園等の人達がやります。あとはしばらく行ってませんが京都立命館大。琵琶湖のキャンパスで何回も練習を見させてもらってます。定期的に決まっているのは札幌の講習会、後は関東周辺というのはこれはもう数えきれないほどやってますし。

ー それだけ全国で行われているということは、かなり昔から広がる動きがあったのでしょうか?

山本:そうですね。
どの団体でもそうですが、昔から途切れなく伝わったという団体がないんです。3年か5年ちょっと盛り上がったら、また10年ぐらい全く踊られない時期になって。何かのきっかけでその時の人材に熱心な方がいるとまた何年か盛り上がる。その繰り返しになるんですよね。
私は昭和37年に久々に七頭舞が踊るタイミングで誘われる、というか半ば強制的に、初めて踊ったんですけど。その時の年配でリーダー的な人達から、中野七頭舞は、中野ではなく小本の八幡様のお祭りの時必ずお神輿の先導役をやっていたと、小本の八幡様のお祭りの為に受け継がれてきたと聞きました。
その方々が七頭舞を習い小本のお祭りに踊るという時に、カスリーン台風(昭和22年)アイオン台風(昭和23年)と大きな台風が連続し、お祭りが中止になった。以来休止していたけど、久々に活動することになったのがその昭和37年。25,6年ぶりに踊られることになったんです。

その頃は保存会ではなく、中野の場合は中野部落青年会。小本には小本部落青年会。各地区に必ず”青年会”という組織があったんです。

青年会の活動は、地域の青年達がお盆や正月等の時々に一堂に集まっていろんな話をしたり、中野の場合は、田植え時期とか稲刈りの時期に地域の子どもたちを1週間青年会が預る、今で言う保育をやったり。その一環として踊りも青年会がやってきたと。それが地元に青年がいなくなり、青年会の活動が出来なくなった。私が入った頃はまだ青年会でしたが、2年程で青年会が解散してしまった。その時の先輩達が、このまま無くなるのは惜しいからやってみようと保存会を設立をした。私らはこれを第一期の保存会って考えていますけども。
青年会が昭和37年から2年くらいやって、保存会が39年か40年くらいから始まり、4〜5年活動して又下火になっていった。
で、51年に部落会からお祭りを又復活したいんだけど、と、当時の舞手の消防団の方に依頼があった。それが現在の佐々木隆幸会長のお父さん。当時、消防団の団長さんの時だったんですよ。一回目の保存会も自然消滅し、青年会もなく、唯一取りまとめる団体が消防団しかなかったんです。

なんでその51年に踊られるようになったのかは、長年の夢だった三陸鉄道の工事が始まったり、気分的に地域の盛り上がりがあったのが一つ。
それと白山神社の入口に欅の巨大な御神木があったんです。その欅の枝が通学路の上を伸びて非常に危険で「これが折れると子供達が怪我する恐れがある。切って欲しい」という要望があった。するとその木に当時何百万という値段が付いて収入になり、お神輿の修理に使おうかということになった。今まで神輿がお祭りに下りて練り歩くというのは一度もなかったんですよね。なのでこれを契機に、お神輿を京都の方の仏具屋さんにお願いして、何百万という金をかけて修復して出来上がって、せっかく出来上がったからそのお祭りをやろうか、というのが51年ですかね。大きなお神輿様が練り歩いたのはそれ1回きりなんですよ。

「髪長姫〜アジアが紡ぐ笛ものがたり〜」中野七頭舞より”先打ち”

山本:「せっかく去年もやったんだから」となり52年のお祭りにも踊って。その時に北上から、千田任男先生という方が転任で小本小学校に来てたんです。その先生は非常に民俗芸能に関心があり、岩手の民舞研会員でもあったんです。しかも北上って『東北六大祭り』というスタートしたばかりの大きなお祭りをやっていた。その先生が52年のお祭りの時に、部落を踊って歩くのを見て「県南では見られない太鼓の拍子とか踊りの様々とか、ちょっと違う芸能だな」という関心を持って、でっかいカセットテープを持って録音をしながらくっついて歩いたんですよ。

お祭りが終わると、踊りのメンバーがご苦労会で夜一杯やるわけですが、「今日はちょっと知らない、見たことのない人がカセットテープをぶら下げてずっとくっついて歩いてたな。誰なのかな。」と話に上がったら、なんでもよく小学校に今度来た新しい先生らしいよと。

そして翌年の53年に3回目のお祭りの時は更に千田先生との距離が縮まって色々話もするようになって、先生が「なんとかこの踊りを北上のお祭りに紹介したい」と。当時我々のような田舎の芸能にとって、北上の『みちのく芸能祭り』に出られるっていったらもう夢の様な話だったんですよ。この沿岸部には殆ど招待のないお祭りだったんです。大げさに言うと「あそこで踊ったら俺は死んでもいい」っていうぐらい。

ー 芸能の甲子園みたいなものなんですね。

山本:その先生が「観光館に知人がいて話をするから、そしたら出てもらえるか」ということで色々その間に接触をかさねて53年に初めて北上に招待されて踊った。やっぱり先生が見る通り、北上の人達にとってもいつも見てる県南とはちょっと違うなと。お囃子が心地いいリズムなんですよね。県南は殆ど念仏系で、どちらかというと落ち着いたリズムでの踊りですのでね。沿岸部で北上に連続して招待を受けるというのはまず殆どなかった。3年目あたりに声がかからなかったんですが。

北上祭りっていうのは恐ろしいお祭りで、全国各地から芸能関係の研究者が沢山来ている。そこで東京のテレビなどで民謡民歌の時にバックで踊る”菊の会”という所の人達が何人か来て見て、この踊りに惚れ込み「自分らもそれを習いたい」と思った。『みちのく芸能祭り』に来た所、たまたま私らに声のかからない年に来てしまって。「あの踊りが見られない」と主催者に苦情の電話がいったらしいんですよね。その団体以外にもそういう声が上がって。北上では外せない団体と今はなっているんです。”菊の会”の方は直接こちらに来て踊りを見てもらい、その後何年か習っていきましたね。

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